Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

イクラと雲丹とモーツァルト

手をついて見よとや露の石ぼとけ (安東次男)

音と音楽の追想

河岸を歩いてみた。水が少ない。とどこおることない川瀬の渇く音。その音が遠く対岸を過ぎ行く車の音に重なる。 道が河岸から逸れたので草叢に入る。一歩ごと草をかき分ける音がかえって静けさをましてゆく。その瞬間、三羽の鳥が飛び立った。 川音や草に触れ合う音、鳥の羽ばたき。過ぎ去る音を追想

また、河岸の道に出た。もう空には鳥はいない。 たとえ偏った戯れであっても、人の技によって作られ組み立てられた音。その音楽を追想

ぼくの音センサー

ぼくは家でCDを聴いても、コンサートで生演奏を聴いても、街角でちょっとした音楽を耳にしても、ジャンルやソースを問わず良くも悪くもその音をその場の肌理1で捉えてしまうことが多い。今という大きな部屋に散りばめられた音楽の体験っていうのか。その肌理が快いならば、ぼくにはその音楽はオーケーだ。これは、音楽の動線とし自分が演奏の送り手の場合も同じことだ。

度はずれた音楽にセンサーが不調

ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトという音楽家がいる。作曲家というよりもやはり音楽に専念した人だ。この方の音楽にぼくのセンサーが動かなくなってしまった。他の音楽ではちゃんと反応しているのだが、どうしてモーツァルトだけなんだろうか。 かつてはぼくが若い頃はモーツァルトはそれなりに楽しめたというのに。井上直幸のソナタグレン・グールドピアノソナタ第11番もよく聴いた。カール・ベーム。好んで親しんだ。だがやはり、どこか彼の音楽は、今にして思えばやはり《度はずれた》音楽という印象だった。

驚異と静穏

モーツァルトの音楽はその音楽の肌理をぼくには露わにしてくれなくなった。所与のものがすり抜けていって「驚異と静隠の状態」が果てしなくつくり上げられるのに呆然とした。 そして、ある時からモーツァルトに対して強さと怖さの二つを感じるようになったどうしてこうもモーツァルトと相性が悪くなったかわからない。相性というのも紙一重。素晴らしすぎて合わないのだということも言えるのか。こちらが素直な構えでいればいいと思い、 カール・バルトや遠山一行、吉田秀和、クリストフ・ヴォルフも読み漁ってはみたが、ぼくのセンサーはそのような処方では立ち直らなかった。主題や目的に関わらず、結局味わうのは自分の感覚であり自分の中に呼び起こされるものがあるということだった。今回の場合は他人のモーツァルト観など参考にはならないことを確認するだけだった。自分の意見を明確にするだけだった。

遠ざかる

恐れは喜びと同じく緊張を強いる。喜びには不安はない。ともかくどうしても不安がつきまとう。その不安は不快さに行き着く。そこまでしてモーツァルトの音楽を聴く必要はないと思った。寿司を食べに行くのにイクラと雲丹が苦手ならそれを避ければいいだけの話しと同じことで、ぼくは《度はずれた》音楽家モーツァルトからそのまま遠ざかることにした。寿司ネタをモーツァルトに例えるとは。世にきくモーツァルト愛好家、イクラと雲丹の好事家の方々を疎む気持ちは毛頭ないので悪しからず。

あの音楽がヒーリングって何

それが、先日医者の待合室でモーツァルトの曲が立て続けに流れたのだ。次のときもまたモーツァルトだった。旧聞だが医者の待合室でのバッグミュージックではモーツァルトが上位を占めてヒーリング効果が抜群だということだ。 忘れていた遠ざかっていたことを思い出したのでここにモーツァルトについて少し書いてみた。これは、いわば主張ではなく告白である。

作曲家であろうが、演奏家であれ、聴き手であれ、音楽は内から来るという。 音楽の起源は人間の中にあるというなら、その相性の悪さは自分の中にあるのだろうか。

離れていてもモーツァルトを聴いている

「音楽はいつでもそこにあります。」といった友がいた。 また、もう一人の音楽の友だちである、中山(id:taknakayama)さんはこう言った。「若い頃は、モーツァルト交響曲ピアノ曲を好んで聴きましたが、今はほとんど聴きません。でも、なんというか、常に聴いているような感じがあります。」と。

とても印象深いことばだ。 まさに、記憶の中の音楽であっても今の自分を支えているのだ。音楽が身近にあるというのは、遠く直に音に触れなくとも自分の中に鳴り響く音楽があるということ。たしかにそうだ。

また、いつの日か、モーツァルトを素直に受け入れる日が来るのだろうか。


  1. あらゆる感覚による目には見えない雰囲気