Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

考える

隔たり・近さと親しさ

人は遠くにいても近さを感じることがあります。また、近くにいるのに隔たりを感じてしまうこともあります。 このコロナ禍でホームの利用者の方がご家族との面会が出来なくなっています。 そんな折り、認知症が進んだAさんにふとスタッフが声をかけました。 -…

今朝、ヒゲを剃ろうとおもったら剃刀が切れない

些細で具体的なことが人生を変えるという。人生は旅である。まさにその通り。 言うまでもなく、その人生とはぼくのことであって誰彼のことではない。 むろん道理を説く教えではなく、只の僕の実感。友だちとしてきみに話しをしている類いのことと理解してほ…

内臓の感受性が鈍くては世界は感知できない -私たちの行動は内臓の声に突き動かされる-

今日の話は「太かったり、染みたり、命じたり、冷やしたり、潰したり、抜かしたりするものなーんだ」というお話☺️ ですが、言葉遊びではありません。興味深い「こころ」のお話です。 <こころ>とわたしたちが呼んでいるものは内臓のうごきとむすびついたある…

森のなかで走ったこと思ったこと

今日の話しは わたしが、やってるのはトレイルランの延長ではなかった。わたしには自分が山野を駆け巡る修験者だという自覚はなかった。 という驚くべきお話。 -- 自分をじっくり見つめるには、静かな時間と場所が必要だった。建て前と本音ではなく、本音の…

静けさという新しい選択

新しいものに輝きを感じる時 四月に入り職場に介護職の新人がやってきた。ピカピカして輝いている。僕の孫くらいの歳だ。若いっていい。志をつらぬいてほしい。 舊いものに輝きを感じる時 道具は使いなれた馴染みのものがいい。だが何は廃れる。お決まりの原…

遠くから近くから

世界の集落調査 建築家である原広司には部分が全体を超える1という強い確信があるようだ。そのライフワークである世界の集落調査をとおして受けた空間デザインに関する教えには教条的なものがないので、受け手のぼくらは建築という専門分野をこえて既成の枠…

へそと海と自分

こうしようとして果たせば良いのだ。それには目指すもの、降り注ぐような全体を覆うわけ(理由)、真ん中にあるもの、テーマという譲れない事柄etc。そして実行。出来ることもあれば、惨敗の時もあった。でも、そのようにあたまのテッペンだけで考えている意…

木は語らない・木は語っている

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20120322#c の続きだが、こちらから三上さんへのコメントにしてみた。 - 三上さん、こんばんは。一方で<木は語らない>というのは、私には<木は語っている>ということを他方で想起することです。実にこの二つの命題は矛…

コサギがいた

幸いと喜びは同じところにはないが、今日もジョグに出た。すると川岸にコサギをみつけた。 あの時のコサギではない。いやあのコサギかもしれない。なぜそう思うのだろう。考えてみた。20070904と日付があるがもうずっと過ぎ去った昔のことのようだ。http://d…

ツールはわれわれの意図を超えるのか?

Webネットワークのこと。ビル・アトキンソンは自らが生み出したハイパーカードを顧みて、自分のアイデア(開発)に盲点(欠落したもの・過ち)があったことを述懐している。 アトキンソン氏は、アップル社のエンジニアが、多くのコンピューターを互いにつなげ…

風を聴く・風を語る

ふと今見たこと、聴いたものはそれは何だ。光の束、音の流れ。鶯の囀り。馬の嘶き。豚の尻尾?だが今、こうして日本語というわたしの貧しい<言葉>以外ないものを通してあなたに向う。じれったい?そうでもないぞ。ならば、わたしの思いが先ずわたしの内に…

描き方

同じものを描くにも、 描く道具の持ち方、位置によって 描写の結果がまるで違ってくる。 筆先の近い方より遠くを持ってみる。 思った以上に微妙な動きが出来ないだけに・・・ 描こうとする私の中心軸がよく見えてくる。

視ること・写すこと

晒されて視て写して記憶に至る存在と描写と表現=脱複写 - Emmaus’にTBされた中山さんが更に、画家・佐伯祐三(2007-10-14 - 横浜逍遙亭)にも敷衍されコメントされている。思うに・・・認識とは<存在>そのものを思考することだろうから、ルクレティウスが…

失うこと・老いること・気づくこと

先日私の勤務する病院で患者のUさんが亡くなられた。鳶職の頭領だった方で、体の片方には見事な龍の刺青があった。どんな経緯の刺青だったかは分からない。空っぽになった病室になって幾日も立つが、長身の年老いた体に彫られたものが、ただの勇さだけでなく…

defuse・色を抜き取る・スキルということ

秋桜の写真から色を取り去ってみた。モノクロの写真を再認識した訳でもないがそれがより植生の獰猛さを想起出来ると思ったからだ。だがボクが単純に白黒にしたものを画像ソフト処理を専門にする友人に送ったて見てもらったが、「つまらない」とのメールが来…

憶えている

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070925/1190733834 体が覚えていること。行い。存在。存在するものを思考すること。知ること・認めること-[認識]-現に在ることは意識上のことでなく非言語の領野の広さにある。

世界がゆるやかに構成されている?

本居宣長は「情」という字にルビを「ココロ」とふっていたそうです。その情を支える体は情のように揺れ動くのではなく強くココロをも支える<生命>そのものであって、体だけでは私たちは完結はしません。<もっと大きなもの>への関わりが私たちを覆ってい…

目覚める

考えてもいた、思ってもいたがぼんやりしていたかも知れない。奇妙にも眠りから目覚めて後にしか自分がぼんやりだったということは分からない。目覚める=気づく回路。単に考えたり思ったりする以上に。やはり考察するんだよ。つまり注意深く判断を巡らし不…

福祉・自己と他者

今年二月にターミナルケアの施設を訪問する機会を得たのだが・・・以来関心が継続して、この度時間を作ることが出来たので福祉関連の講習を受けている。自分をよりよくケア(肯定)しないで他の人もケアできないという人生の基本を痛感。同情(sympathy)より…

経験・記憶

あの時のコサギだろうか。以前の写真→http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20060306/p1 やや形が多きい。 時は。既に一年が経っていた。 場所は。イタリアでもフランスでも中国でもベトナムでもない。やはり日本->東京->小平。あの場所x=139.4&y=35.7。同じところ…

聴くことの他者の存在

駅前の街頭でスピーカーをもって何かを訴えている人がいる。素通りする人、立ち止まる人。しばらく耳を傾ける人。全く無視する人。ところで、ある事柄を話すこと語ることは、一人でも出来るけど、一方聴くということになると、一人では出来ない。他者の話す…

<ずっと遠くに>と表現すること

三上さん(id:elmikamino)がル・クレジオの『歌の祭り』を載っけられてる。http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070325/1174845476ル・クレジオのそれに纏わる話ではないですが・・・それにしても、言語についてです。 元来文字を持たなかったアイヌの人々は…

<知>とは何か

だが死は生に縁取られ、生も死に縁取られて<種>の一体の流れがあって、その中で死ぬまで私が他者との関わりに意味を見いだすとして、あるいは情報の全体が分かちがたいものとして、私の<知>が働くならばそれはどういうことなのか。三上さんのエントリー…

物語ること-あの袋の軽さ-

かろうじてあるハズのボクの思考回路(あたま)は役立たずだね。先週の「すってんてん」に居る方がいい。あるいは一方的で極私的?には信仰(イエス・キリスト)のところに居るとよく見えてくる。この極めて個人的なこと(あたりまえ)をどう全体に展開する…

幾つかの死の縁取り

茨木のり子がなくなってもう一年が経つ。未発表の作品が親族によって発見され出版された。「歳月」(花神社、2007年。夫Yが逝った後作られた、かたわれへの新たなラブレター(恋愛詩)。「恥ずかしいから死後に出版してほしい」と原稿は書斎のクラフトボッ…

「おい」という言表・ラングとランガージュの追記

追記 http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20070306/1173131105 むしろラングはルールということよりも契約的様態と見る方が現実的だろうとボクは考えます。つまり危機において文法単位が単語やフレーズの静的に作動せずに、前の語に促され次の語が導きだされる動…

「おい」という言表・ラングとランガージュ

「草枕」の第2章の始め、余(主人公の画工)が「おい」(英訳ではAnyone there?)と峠の茶屋の者を呼ぶ。言語はその言語の裡に言語の本質を表します。犬が「ワン」と吠えた音に発話の意味を見いだすことは出来ません。単純に「おい」という言葉の器(記号)…

「草枕」メモ・対位法

一昨日の続き。 ここに新たに「言述者」という要素が登場する。だが、「スゲェ」に対して私は主体と対象を判断しようと分離を行う。 http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20070302/1172810380 「草枕」の余(画工の主人公)と那美との関係を見てみる。「スゲェ」は、…

私と精神

「山」と「私」は言葉として同じ機能ではない。「私」の意味は、話を聞いているあなたではなく「私」と言っているわたしの人に意味づけられている。(「日本語の森を歩いて」小林康夫+フランス・ドヌル)わたしの主体が語る者-つまり発話者とわたしが一体の…

子規について伸び上がる「気品」 

墨汁一滴のあとがき粟津則雄に沿ってのメモランダム!子規には伸び上がる(自由な)「気品」がある。それは余裕から生まれたのもではない。彼には余裕を生み出す経済的背景と境遇はない。 ・・・子規の随筆には子規の人間全体が、批評という意識を孕ませなが…