Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

救いにおける人間の主体

「救い」の理解のための神学的かつ人間論的な出発点

すでに述べたように、人間は自由な主体として自分自身に責任を負うものである。また、人間は自分の本来的な自由行為、原初的に唯一の自由行為、自分の人間的実存全体にかかわる自由行為の対象として、自分自身を掌中に支配するものである。その限りにおいて、次のように言うことができよう。すなわち、人間は「救い」を有し、また本来の人格的な実存への問いは真実には「救い」への問いである、と。
「救い」を理解するために、原初的かつ主体的な出発点、自由の本質に由来する出発点を見過ごすならば、「救い」は奇妙で神話的な響きを持つものと考えられてしまうであろう。「救い」とはそのようなものではない。「救い」の真に神学的は概念は、決して突然人間に外ら到来する未来の喜ばしい状況(もしくはそれが「滅び」である場合には、喜ばしくない状況)と言うのではない。また、「救い」とは、ただ道徳的な判断によって人間に与えられる状況を言うのではない。そうではなく、「救い」とは、人間が自由において神の前になす真の自己理解と、真の自己遂行の最終的決定性を言うのである。これは、人間が自ら自由に超越を解釈し、これを選ぶことにおいて自分に開示され、委ねられている、そのありのままの自分自身を受容することを通しておこなわれるのである。人間の永遠性は、ひたすら時間を越えて存在する自由の本来性、かつ最終的決定性としてのみ理解されるのである。それ以外のあらゆるものは、はやり、時間のなかにしかない。そこに永遠はない。永遠とは、時間の反対のものでなく、自由の時間の完成である。
以上の見地から当然のことながら、われわれの最も重要で、最も困難な課題の一つを、ここで繰り返し明確にしなければならない。すなわち、キリスト教信仰が人間について語る事柄は、たとえ救済史的な叙述であろうとも、常に原初性における人間、超越論的本質における人間である、ということである。したがって、およそこれについて語ろうとするとき、次のことを決して忘れてはならない。すなわち、人間がすべてを包む神秘に向かう超越において自ら問い自身である、その唯一の問いの超越論性が、間違った形で「事象化」kategorialiserenされてはならない、ということである。(訳注・事象化=経験次元でとらえられる諸対象の一つのようにみなすこと)。
キリスト教とは何か」カール・ラーナー(百瀬文晃訳)より

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カール・ラーナーは人間を「自由な主体」として規定した上で、「救い」に対して言及する。
すなわち、人間は「救い」を有し、また本来の人格的な実存への問いは真実には「救い」への問いである、と。人間は神秘に向かう超越において自ら問い自身であると。
つまりは、「救い」は人間の主体性という自由の本質に根ざすことによって理解さるのだと。

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