Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

神と必然/シモーヌ・ヴェイユ

これだけはいえます。わたしはこれまで一度たりとも、いかなる瞬間においても、神を探し求めたことはないと。おそらくはそのせいで、もちろんあまりに主観的といえばそれまですが、神を探し求めるという表現は好きではなく、あまつさえまちがった表現であると思っています。すでに十代のころから、神の問題は地上にあっては所与(データ)に欠ける問題であり、誤った解決にいたらない唯一の確実な方法は、この問題をはじめから措定しないこであると考えてきました。誤った解決は最大の悪であると思えたからです。よって措定しませんでした。肯定も否定もしなかったのです。この問題をとくことは無益と思われました。この地上にあってなすべきは、地上の諸問題について最上の態度を選びとることであり、この態度は神の問題の解決に左右されないと考えていたからです。

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1937年にはアッシジですばらしい二日間をすごしました。聖フランチェスコがしばしば祈ったという、サンタ・マリア・デリ・アンジェリの12世紀ロマネスク様式の小聖堂に、その比類なき純粋さの驚異につつまれて、ひとりでいたとき、自分より強いなにかに迫られて、生ませてはじめてひざまずいたのです。

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1938年にはソレームで十日間をすごし、枝の主日から復活祭の火曜日まですべての典礼にあずかりました。ひどい頭痛がして、音がするたび殴られるように痛みました。精一杯注意力を傾けて、みじめな肉体から抜けだし、肉は肉の領域に閉じこめて苦しませておき、聖歌と言葉のたとえようもない、美しさのうちに、純粋で完全な歓びをみいだしたのです。この経験によって、不幸をとおして神の愛を愛する可能性を、類比的に、よりよく理解できるようになりました。これらの典礼にあずかるうちに、、キリストの受難についての考えが決定的にわたしのなかに入りこんだのです。

シモーヌ・ヴェイユ「霊的自叙伝」