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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

 恵み・無への供与

「このようなものは運び出しなさいと」イエスは言う。まして他のものを得るために善き人になろうと願い神の栄光のために祈りという取引をしてはならないと。主と取引をしても期待は裏切られることになると。
だれかが神殿ですなわちわたしたちの魂の内で語ろうとするならば、イエスはわが家にいないかのように沈黙する。イエスが語るのを魂が聞きたいと思うならば、魂はみずから沈黙しなければならない。エックハルト「説教集」

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それはわたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとうりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(1ヨハネ3:1)。

わたしたちは神の子であり、神がみずからの子をわたしたちの内に生むということが最も大きな賜物なのだ。神の子でありたいと思う魂はみずからの内へ何も生むことがあってはならない。神の最高の意志は生むことにある。そのときに恩寵が注ぎこまれるのである。恩寵がなにかのわざをなすということはない。恩寵がそこに現れるということが恩寵のわざなのである。恩寵は神の有より流れ出て、魂の諸力の内へと流れ入るのではなく、魂の有の内へと流れ入るのである。
エックハルト「説教集」

ハレルヤ(神を賛美せよ)へという決断への意志がある。だが恵みはそれによって在るのではなく、そのわたしたちの魂に神がみずからの子の誕生を授かることによってこそ魂の有に恵みが注がれる。その誕生は受難と復活に貫かれている。すべてのわざに自由であり、自らからも離脱せよと。さらにエックハルトはいう。その離脱からも離脱せよと。
「無」への供与に招かれる。