Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

解かれる憐れみ

不幸

飢えて死に瀕する、その路傍に横たわる不幸な人間。神は慈悲(Misericorde)を抱くが、パンを送りとどけることはできない。その場に居合わせるわたしはさいわいにも神でない。わたしは一片のパンを与えることができる。これが神にたいするわたしの唯一の優越である。

そうヴェイユは言った。
またこうも彼女は言う。憐れみ(compassion)のみが不幸の観照を可能にすると。不幸に打ち砕かれたる者はその不幸を観照はしない。憐れみ(compassion)が介在せぬかぎり、他者の不幸は不幸でないと。

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自己と他者

人への優越は如何ほどもないがでもそんなふうに神に対しうるのだ。そうして魂への照応は確かにそうだと言えるとボクはそう思う。さいわいにも他者の不幸は不幸において不幸ではない。さいわいにも他者の感応する親密(Intimete)。憐れみ(compassion)の本質(com「共に」+patī 「苦しむ, 耐える」)。さいわいにもそこに他者が他者としている。さいわいにもその当事者は耐えること自体をなすよりも待つことしかできない。自己と他者の境界と了解。

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憐れみの自由

でもってヴェイユはこう言う。

憐れみは自然的であるが、自己保存本能ゆえに窒息されられている。超自然な愛が魂を満たすとき、はじめて自然的な憐れみが自由になる。