Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

清貧=時間性

だけど、むろん本来ありうる人の「善さ」といったところで、それが自らから出るものではない・・・ということは、人の中であるいは自然の中でよく額に汗し体を動かして「働く」ということと、それに伴う時間の中でそのほんとうの確かさをボクらに示してくれる。頭だけではなく示されたものが全体で分かってくる。
そうして体全体でその自らの内にまたその外にも「清貧」という他に代わりべきものでない一つの詩情があることに気づくのだ。詩情がワタクシにまつわる感傷なら棄てるに限る。感傷とはただやっかいなシロモノなのだから。それがこのおのが体から発する詩情とでもいふべきものが【時間性】においてならどうなのだろうか。考えるのも悪くはない。一考の余地はある。
確かに春に見られる桜の光景のはかなさをヴェイユもいみじくも語った。だがそれは自らが自らと自らとの「不在」と時間と距離を感知することで、ボクらはその「清貧」に気づくのだろう。この体で知った「清貧」と、また知ったが故のこの詩情を愛することは、決して憐れみに対する障碍とはならないで、いささかの禁欲とも無縁なこととして、むしろわたくしとわたくしの不在と他者から差し出される何にもして味わう最も唯一のことにあるといえると・・・そうまたヴェイユは言ったはずだ。
またその清貧もまた決してこの頭だけでは知ることは出来ない。そんな自らだけでない「善さ」にいつもボクらは支えられている。むしろそれはニチジョウのひとつ一つに気づきにあると思えてくる。この果てしないニチジョウにおいてこそ、ボクらには何よりもあの「時間」への横断というものがさらに必要になってくる。時間