Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

海にて経る

karposさんが海を経ることを書き綴られている。
海のながめ 5 - 新生★KARPOS

ためらいなく

海との接点、海辺での行いの意味。石を積み上げること。
その行いは目新しいものでなく、きっと人の昔からやってきたのだろう。人が行き交う海辺でのこと 石を積み上げることの「経る」ボクの記憶。ボクらの記憶。それとも記録。それは積まれた石の跡々。

だがこそ、それがあるひとつの意志というより、あるひとつの意がそこに注がれたと云いたい。そんなボクらの注意とその力。そこへのボクらからの方向。
それはまるでボクらのどこそこに何気なくほんとうのこと、躊躇いのないこと。あるいは懐疑主義者にとってのどんな途方もない想定よりも、デカルトのなほ確かな求めていた第一原理をためらいなく受け入れることが出来るようなこと。

確かに

石を積み上げることを「経る」。ひとつを積み上げてまたひとつ。その時々の石の上に広がる孤空の間にボクらの気を集める。

それは確かなこと。あるいは明証的できわめてボクらが存在に帰結することの出来るようなこと。

「海は、海を経験してもらいたいと、そのながめをじっと見つめている」とkarposさんは書き綴る。
その「経る」ことは唯一無比の起源へ収斂するというような神話的なことを越えて爽やかに云えること。
そう何よりも海の時空に「経る」ことの何気なく誇らしげな行い。ボクらに出来るこの地上での行いが海に経る。ボクもこの時を経てなほ微笑む。