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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

息の転換・パウル・ツェラン

パウル・ツェラン全詩集〈1〉

パウル・ツェラン全詩集〈1〉

およそ本来的な<私>自身などというものはなく、他者においてこそ私であるということ。あるいは人自身がある者でありたいというより、他者の関わりにおいてその人(自己)である。・・・などとボクが闇雲にこのブログで話を切り出しても、誰も -「それで何?」とふうな- ただ奇妙に醒めたものを感じるもの致し方ない。
出会いはいつも不意である。マルティン・ブーバー関連を読み漁っていた頃「パウル・ツェラン(Paul Celan)」という名をボクは知った。彼がそのハシディズムに傾倒していたというのだった。(そのブーバーにも後年敵意を示すのだが)。それから程なくしてボクは須賀敦子の本の中で彼の名に再び出合う。訳者中村朝子という名も含めて。翻訳の仕事において従来の日本語という言語体験化の安易さと訳者の個人の範疇に引きつけるような浅薄さと傲慢さの昨今を須賀は嘆きながらも、ややツェランに高揚した須賀が気になった。

ともかくこの詩集を手元で繰った瞬間に、身を削ってこそ出来た言葉、その構築された言語体系が一気にボクの前に立ち現れた。驚いた。際立つ上質な言葉の多様な飛躍と収斂と自由なリズムの評釈に深く引き込まれた。柔らむ日常と硬質である言葉の対峙が違和感なくみごとにあらたな〈自己〉と〈お前〉の地平に導きだされると云っていい。後から後から喚起する言葉たちが重層的に迫ってくる。だからツェラン自身がアクチュアルというよりも私たち自身の中で今もまだアクチュアルとして彼が喚起する。痛苦においてよりすばらしい隠喩においても。その彼を襲う危うさにおいてもだ。

彼の出自は旧ハプスブルグ帝国領内、当時ルーマニアの街、ツェルノヴィッツユダヤ人として1920年生まれである。両親はナチスの進軍によって強制収容所で殺された。完璧なまでのこのユダヤ人撲滅という人間尊厳の剥奪をまっただ中で体験である。幾度も重なる歴史の変遷する支配者の手から手へと弄ばれた地において。
東欧にユダヤ人の例にもれずツェランにとってドイツ語は母語であり、父語はヘブライ語だった。
言葉・記憶・保持 

様々な喪失のただ中で、失われず残ったものは言葉だけでした。しかし、その言葉は自分自身の答えのないことのなかを恐ろしい沈黙のなかを、死をもたらす談話の千の闇の中を抜けてこなければならないのでした。しかし、言葉はこれらの出来事の中を抜けていったのです。抜け出ていき再び明るみに出ることが出来ました。すべての出来事に「豊かにされて」ある歳月の中で私は言葉を書こうとしました。

ある特定の目的のための道具と言葉がある。またそれを拒絶することがあるのだ。生とイデオロギーという言葉の装着。彼のナチスファシズムの体験の詩人としての当然の帰結。この装着と帰結が出自を絡めて分かちがたく言葉という「お前・汝」がすべてを剥ぎ提示する。危うさの影をちらつかせ。「現実に傷ついて現実を求めながら自身の存在とともに言葉に向う」。これらの拘束と閉塞なる接点も住居をパリに定めカトリック教徒である画家ジゼルと結婚に到った一時期影を潜めるのだが。〈自己〉と〈お前〉の訴求はやはり消しがたい。何故に。それだけがおのが自己の結語なのだろうか。1956年にはツェランアラン・レネの映画「夜と霧」の解説文にも携わっている。
詩集の後書きに「詩-それはひとつの息の転換なのかもしれません。おそらく詩を道をも--芸術の道をも--こうした息の転換のために進むのではないでしょうか」とあった。この短い詩論の如きは何を示すのだろうか。イスラエルへの呼びかけは決して帰郷ではなくシオニストの発露でもない。「お前・汝」と呼びかける眼前のお前という現実だろう。不思議な明るさで心を揺さぶるのだ。風に靡く旗のように。
だが1952年「死のフーガ」第二詩集「罌粟と記憶」に始まり---1970年セーヌ川自死ということに至るのだ。私が他者の中でこそ私であるということ。休むことなく言葉だけが自己を記憶を保持し続けるツェランはこの道しかなかったのだろうか。いみじくも息の転換と云ったのは他でもない彼自身ではなかったのか。そうして同じくこの年、彼と16年間往復書簡続けていた相手、ノーベル賞受賞した詩人ネリー・ザックス彼女もこの世を去った。息の転換・・・冬の重たい雲。非情なる哉。