Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

祈りに


隠される

神は世の知恵を愚かなものにされた。何故に。この世においてあるいは人において。賢い者の知恵を滅びとされ、また聡くもことに通じた分別をも空しくも隠れるものとなさるのだろうか。主は。いと高き方である主はたしかに云われたのだ。近さと敬いにあってもこの民の心は遠くにあると。またその敬いは慣れ従うことの内にのみ擦り込まれているだけだと。(1コリント手 1:22 イザヤ 29:13)
皆でお迎えをしたい。学ぶことも知ることも大切だ。だからこそ祈りでありたいとそう思っていた。ここに居ていいという安らぎ。見えぬ不安というより秘められた喜びとして。この今こそ私に祈りを。光の子の降誕をお迎えする静けさと測りあえるほどに・・・。出合いの時。招かれた時。心に決めた時。洗礼の時が私を柔らに巡った。

人としての記憶

だが何だろう。この安らぎというものは外の冷たい風に当たる健やかにあるという記憶だけを呼び覚ますのか。あるいはまた爽やかが清々しさにいるという記憶だけを呼び起すのだろうか?そうではないだろう。
フランソワ・ラブレーの研究者だった渡辺一夫はかつて「狂気」についてブレーズ・パスカルの言葉を引用した。『病患は、キリスト教徒の自然の状態である』と。

つまり、いつでも自分のどこかが工合が悪い、どこかが痛むこと。言いかえれば、中途半端で割り切れない存在である人間が、己の有限性を染々と感じ、「原罪」の意識に悩んで、心に痛みを感じているのが、キリスト教徒の自然の姿だと申すわけなのでしょう。まあそういう風に解釈させてもらいます。
これは何もキリスト教徒に限らず、人間として自覚を持った人間、すなわち、人間は「天使になろうとして豚になる」存在であり、しかも、さぼてんでもなく亀の子でもない存在であることを自覚した人間の愕然とした、沈痛な述懐にもなるかもしれません。恐らく「狂気」とは、今述べたような自覚を持たない人間、あるいはこの自覚を忘れた人間の精神状態であるかもしれません。-「寛容ついて」からの一章より 渡辺一夫-


渡辺が云う「狂気」とは、つまりこのおのが人間としての「罪」を忘れてしまって何も感じない状態だということだ。まさに適宜な洞察。エスプリとはこのように自由と英知と寛容に支えられているのだ。ボクらが辿る健やかさや清々しさの記憶はただ自然の風に当たる感性にあるのではなく、この「罪」とそれからの救いの安心にあることを忘れては何にもならない。清さより救いを。癒しよりも赦しを。祈りたい。そんなさぼてんでもなく亀の子でもない存在として・・・そのように祈りの内にさらに祈りをささげていきたい。