Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

降りこと昇ること

降りてゆく。さらにもっと降りていく。風の通うような上昇や下降ではない。自分を低くするという比喩ではない低さ。人となって降りられまた一粒の麦が地に落ちる。落ちることよりさらに低さにある思いさえない低さ。というよりも・・・おのれを離れ脱しておのれを明け渡すと云うべきか。

下降する者は。その下降において上昇を知っているか。上昇の者は。上昇において下降そのものを知るだろうか。では何故降りてゆくのだろうか。何故昇るのか。かつて、ヴェイユは「同情はある段階まで降りていくが、それより下には降りて行かない。愛だけがその下へまで降りるのは、どうしてだろう。」と云った*1。果たしてここに比類無き愛があるからと明証的に云うべきだろうか。ボクらはその言葉を知っていても、だがそれがそうだとなぜ分かるのか。あの時十字架が復活に至ると人の誰が予め知っていたというのであろうか。ボクらの記憶の一切においてか。〈今 ここ 私〉がそう云うのか・・・。どの記憶によってそうだと何ぜ云えるのか。

パウロはいう。

しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
ROM10:07 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
ROM10:08 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

信仰の御言葉によってこそ下降と上昇を見る。下降と上昇が真理に照らされる。このことさえ、今にしてこそわたしたちに注がれた比類無きこと。その場をここに与るということ。御言葉は近くにあり、口に心にあると。それを「恩寵」とも「聖寵」ともということで示される。


karposさんは述べている。枝の日 - 新生★KARPOS

なぜなら、
もうひとつ、
エスも、わたしも、
知っていることがあるから。
もうひとつのこと。
だから、
離脱は、
コンパッションのなかでしか、
それは恩寵にも近い。


そのサブタイトル

その風景がわたしたちにもたらす印象について何が言えるだろ。

しばし思い巡らした。。

karposさん、感謝。お続け下さい。