Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

聖金曜日

主の受難

高円寺教会でこの夜は主の受難の祭儀に与った。
晴佐久神父様のまっすぐな福音よかったぁ。「洗礼はあなたを救う」と神父様は熱心に宣べ続けられているが、高円寺教会はこんどの復活祭の授洗者90人を越えるらしい。代父代母あわせただけでものすごい数になる。それにお付きの人もいるのだろうし。ふえぇ。高円寺教会の会報「いしずえ」には「臆することなく人々をミサに招き、洗礼を勧めてほしい。『入信センター』を必要とする人が、日本にはあと一億人いる。」と書いてあった。

十字架の道行

出掛け前に「ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行」を留めてみた。第8留が心に留まったな。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 」とある。ルカによる福音 23:28〜31だがその前段からと黙想を引用してみる。

みことば

人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
LUK23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
LUK23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
・・・・LUK23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。

黙想

・・・おそらく、回心することも、まことの信仰に至ることもない、単なる感情的な信心をたしなめておられるのではないでしょうか。この世の苦しみに同情しても、わたしたちの生活が相変わらずおなじようにつづくのであれば、ただことばを述べたて、感情的に泣くだけでは何の益にもなりません。・・・しかし、罪の秘儀をあまりにもありふれたものとして軽視しているのではないでしょうか?・・・

祈り

わたしたちを回心に導き、新しいいのちをお与えください。終わりの日に枯れ枝になることなく、あなたに連なるまことのぶどうの木、永遠のいのちを得るために実を結ぶ生きる枝とならせてください。(ヨハネ 15:1〜10)
ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行」より