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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

音のないパロール

ご復活おめでとうございます。
金曜日から昨夜の復活徹夜祭を経た(写真→)。そして今日復活の主日の日に洗礼式にも参列したが、やはり自分のことのように嬉しい。三年ほど前のおのれの洗礼を重ねた。刻みつけた音のない言葉。

見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。(イザヤ44:16)

クリスマスにはキリスト者でもない人たちも一緒に理由もなく祝う。嫌でなく嬉しい。かつてボクもそうだった。みんなでお祝いはいい。いいことはいい。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた (ヨハネ1:14)

それが復活祭となると一変。というかこれがこの国の実態。世間の人たちは盛り上がらない。かつてボクもそうだった。誰にとっても何よりも大事で大切なことってある。丁度宅急便の取り扱い注意のように"Handle with care"。だがキリストは実際はそんな脆くもひ弱でもないボクらが弱いのだ。だからこれ以上の喜びはないとなったキリストの復活ということ。大切なこと。これは自己愛であるのか?

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(みこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16)

今は昔(いつもかも)・・・厚い壁に突き当たった。動かない壁。だから人の同情などはたまらなく返って辛かった。何故そうなのか。そのように同情は苦しみを共にするが、苦しいことは良いことよりも悪い方に傾くのだろう。いっそうむしろ貶される人の中にいる方が楽だった。同情には期限というものがあるのだろうか。いやそうではない。人はいつまでも苦しさに居続けることはできるものではない。一人二人とボクからというよりも苦しさから遠のいてゆくのは当然だった。これは自己愛であるのか?

だがどうだろうか。自分を愛することが出来ないでどうして隣人を愛することが出来るだろうか?皆が去った後にもある方がいた。それがイエスだった。ゆっくり心を解いていけて、ただじっとありのままにここに居ることの「信頼」。むろん同情などという徳でもなかった。今までまったく出会ったことのないもの。言語のラングを越えたまさに〈眼差し〉。そのパロール。言葉の仕組みを伴いながら意味するものと意味されるものが一体となるということだったろうか。では何だというのか。人はこれを「憐れみ」や「愛」と云ってきたのだろうがそんなことで納まるのか。だがこれが神とのボクの出会いであるならこれによって神との一体の恍惚に入ることではない。なれるはずもない。
おのれを愛していたのか?それにしても今思うに傷つけたのは自分以上に去っていった人たちだった。何故なら自己を傷つけているならそのようにまた人をも傷つけるだろうから。そのよく分らない自分が「ここに居ていい」と肩に手をかけてくれたイエス。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」とパロール。御前に佇んで一時あずけた。おのれの荷を。少し休んで疲れがとれた。それから新たな一歩を踏み出す。おのれの荷をまた背負って。それでいい。

エスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、 二人は目が見えるようになった。 (マタイ9:29)

あの時に去っていった皆の中にも一人のわたしが居たに相違ない。ならばそのわたしを含めた皆に「ありがとう」と云わねばならなかった。二度と会えなくなって去ったわたしを含めた人達に。それによって今がある今。そのように隣人を愛せるのかと思いながら。もしわたくしを愛せるならば。それからまたもう一歩を踏み出す。「アッバ父よ」となれますように。もう主を悲しませてはいけないと。自分の洗礼を思い出しながら、四谷を後にまた一歩踏み出した。