Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

存在って何?

写してまた映されるもの。二重のわたしで<在る>ということ。どんな意識でもなく、でも意識現象として立ち現れる粒々。その確かなものたち。
ここにわたしが居て。それを見て。あなたを見て。そして世界を見る。だから世界。またそれらを包み込みこんだ世界で<在る>こと。この世界が世開すると記述して、それをおっかなフウに難しく云った人。ハイデガー。写真みたらやっぱコワそう。でも術語だらけでやっぱり難解だけど筋の中心をおさえると意外にも読めて理解できる。形式的指標だからね。ああいうふうにしか多分云えないかったんだろうね。要するに、彼は根が自分に忠実で真面目なんだろうね、きっと。「みずからしめすものを、それ自身でみずからがしめすとおりに、それ自身の方から見えるようにすること」。だもんね。なんか解るけどもグッタリしそうだよ。よっぽど深い事情でもあったのかも。「心は燃えても体は弱い」から。だから体は丈夫にしないといけないよ。でもそれにしても、言葉に対する不信?それとも人に対する不信?。まぁそれはそうとして、それって後、真面目でなくてもボクらが存在をどう感じるしかないものだもの。現存在としてさ。だって指標でもってそれ自身でみずからがしめすとおりに。論理というよりそのものだろうから。「世界内存在」ってことも。世界にどうして開かないで、何にボクらはどう開くと云うのだろうか。世界はボクと皆んで繋がれている。意識もなくとも・・・。
んなこと云っても誰も振り向かない・・・。でも振り向いた人もいたんだね。ハンナ・アレント。ふ〜ん、そうなんだって感じ。『アウグスティヌスの愛の概念』っての前読んだけども。存在はまぁボクらは世界が二重な根本構造だなんて理屈分かんなくても云われる前からウスウス分っているさ。だってそうなんだもん。存在なんだから。ハイデガーが云おうと云うまいと。
存在実体は存在で存在なんだから難解でもなんでもないさ。でも決してそれで酒がうまくなったりお金が増えたりはしないものだね。一度眼を通すならいいけど、味わい深い読み物ではない。それでボクは存在の深奥をみて震えることもないけどもさ・・・。この世の見通しを見つめ直すってこともボクは思わないよ。まして死の虚無だなんて、もともとボクはヤワなことなんか感じないもの。でも見通しは当たっているね。ボクは彼に対してシンパシティはあるのだけども何かが伝わらない。その言葉の実体でありがたい感謝なんだけど。でもつれない人?かも知れない。もっとありのままに云ったらいいのに・・・と。存在のそれよりも、人間実体としてストレートに云った方がいい。例えば ことば、からだ、わたし - 新生★KARPOS というかたちみたいにさ。
でそのハイデガーは晩年アリストテレスの言葉を引用してこう云った。「だれひとりそれを見ていなくとも、星の輝きがそれによって減じることはない」と。それは遠くの星だということでもない。このまさに地球であるかも・・・。その星からまたボクらは見られているといってもいいかも知れない。このブログ底なしの存在書いてたら眠くなった。でもこの手の存在って話が好きな方も世にいらっしゃるから世の中大したもんだ。そんな方が居てこそこのボクもいるって訳だよ。ボク自身の鏡でもある訳だね。自己投影の反対バージョンって感じだね。
それにしても↑の写真瑞々しいでしょう。さぁ仕事仕事です〜。その後はひとまず例の音楽だね。ピアニスト・関敦子 - Emmaus’モーツァルト作品群もいい。それにしても今夜冷えるね。さむい9度だよ。