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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

人に鏡す

墨子に「君子は水に鏡みずして、人に鏡す」という言葉がある・・・。初め墨子儒家(孔子の教え)を学んだが、その仁(じん)の考え方に異を唱えて反目したという。その墨家の兼愛主義は、一家の愛を中心に国家愛にまで高める儒家の考えとは対立する。孔子の『論語』は鬼神を相手にしないのだが、反対に墨子は鬼神こそ確信すべきだと説くのだ。このように墨子の思想は今にしても合理的なものだと思うのだが・・・。

儒家が祭礼を重んじているというのに鬼神だけを排斥するのは自家撞着だと墨家は非難したという。儒家にとっては弱いとこを痛いところを突かれたものだ。人間、それが的を射ると情動に触れるのか意外にも理屈を越えて全く無視することがよくある。だがそれに重ねて他の諸子百家のいずれの派もが墨家を取り合わなかったというのは何故だろう。そしてまた後年何があったのか、墨家始皇帝時代に突如に消えることになる。思想が優るにしても黙殺される人間の歴史の謎である。常ある恒久の諭しであるのかさらに謎である。

ともかくにその墨子はいふ。

「君子は水に鏡みずして、人に鏡す」 〜墨子
どういふことなんでせう?これはかつて森有正が指摘した〈汝-汝〉という二項関係なのか。
そうではないようだ。ではどういう事か?

ふつう?は・・・

  1. 自分の内を覗けるのはこっちの自分。向こうの内なんざ覗ける訳がないと思う。自分のことは自分が一番分かっていると思う。
  2. 自分の財布の中は自分がよく知っていると。他人の財布の中は知る事は出来やしないと。
  3. よしんば他人のその財布の中を知るとしても、その者には他に蓄えもあるだろうと憶測が生まれ、知ることにきりがなくやはり他人の内なんざついには知ることは出来ないと思う。
  4. だから向こうの他人とて自分と同じくその様に考えているのだと思う。それがしごく当たり前のことだというふうに。

そうして

    1. 自分は他人のことを理解出来ず、
    2. 他人も自分のことを全然理解など出来るはずもないと思う。

これは自分(我)を水の鏡に映して他者(汝)に見いだされているようだが、我は他者においても汝という関係の自分だから、〈我-汝〉ではなく、〈汝-汝〉の経験世界ということだ。ううそうか。二項関係だと云える。

      • 他者という鏡に汝を見い出して(分化して)、それに「汝の汝」という自分に照らして投げ掛けるという結論。

でも墨子はいうんだね。つまりは・・・
君子はわが姿を水を鏡とするもおのれを知らず(省みず)、人をわが鏡としておのれを知る(省みる)。

  1. 水に映してそこに生じる自らの外づらのみ見えうるも省みることもなく。
  2. また自らの内なるもの気にもとめない。

そのように水に映す自分の内は何も感ぜずとも、他人の外づらを見ていると思うことが実にいろいろ起きてくる。まるで人の内を見る如くに。

    1. 本来他人の内は分からぬのに人のかたちなどは確かに思ふこと確かにある。
    2. そう思っている自分の物差しがあるのが己に気づく。

たとえば帯人は自分の物差しでいろいろ量る。はかりの基準にふたつの基準はないと分かる。秤をもつ我に気づくんだな。

それ故、

    1. その物差しでいろんなものつまり自分をも測っているんだと。
    2. その物差しで他人の吉凶も測り自分の行ないの吉凶をも知り行くと。
      • 他者という鏡に先ずは我を見い出して(分化して)、「我の汝」の他者に照らして投げ掛けるという結論。

他人を鏡にして自分の物差しに気づき、自分を知るのだと・・・ また他者としての鏡という第三人称としての眼差しがあるのだね。〈汝-汝〉の二項関係ではなく、〈我-汝〉の経験世界だ。

こんな感じかな。かも知れない。墨子さまもまんざらではないです。人のことをあれこれ云っていても結局それは主体の自分をもって自分のこと他者のことを開いているんだね。まあ歴史の古より皆さんも人の中で揉まれてご苦労なさったのだね。とすると儒家二項関係だということになるんだろうか。