Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

森有正・経験と思想

経験と思想

http://d.hatena.ne.jp/emmaus2/20041230

もう一度森有正二項関係に関する文をここに引用してみよう。

結論的にいえば、「社会」というものは、「自我」と同様に、この点に関する限り、反自然的であると言わねばならない。そして、それは凡ての道徳の源泉である。「自我」と「社会」とがその内部から不断に構成されて来る共同体は、本質的に道徳的である。道徳というのは、単に規範的であるばかりでなく、不断に自我と社会を分極しようとする「人間存在」の運動そのものの理法である。それはたえず「自然」に頽落しようとする人間を「人間」に向かって、すなわち、「自我」と「社会」とへ向かって支えるものである。
「経験と思想」

まさに「不断に自我と社会を分極」するという人間存在の行為は西田幾多郎の「分化」と「判断」から「自覚」という磁場における行為のセンテンスを思い起こすのだが。さてその西田は「働くものから見るものへ」において純粋経験を新たな位相として「場所の論理」「行為的直観」に辿るだが、森有正は「経験」については数行のコメントがあるのでかなり西田を意識していたのが窺い知れる。

経験は「私の」経験という形では問題にならなかった。と言ってそれは西田幾多郎博士の「純粋経験」という主客合一の原初的事実とは全然違う。自分のことも、自分の周囲のことも、日本も、国際場裡に起こることも、それら凡てを含んで、それは一つの経験であるという発見だった。
「経験と思想」 序にかえて

その後西田のそれには森は触れることもなくこの世を去って逝かれた。あの「経験と思想」から続く第二部「『実存』と『社会』」と題する予告を残されたままだった。もう逝かれて三十年になろうとしている。
辻邦生の解題にはこう述べている。

「思索」という行為が、「人間」を「人間」たらしめる根源の促しであるかぎり、森有正氏が示した「経験」の道はつねに新しくわれわれの前につづくであろう。そしてそのときわれわれは『経験と思想』がそこに辿る重々しくも真摯な先達の足音として、われわれを勇気づけていることに、気づくにちがいない。