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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

Out of Place: A Memoir

Edward W. Said

境界に立つ者は内にありながら常に外に居るのではないだろうか。エドワード・サイードは嘗てボクらに問うた。というのも、まさに人生は出発と帰還の連続だから。サイードは西洋知において「オリエンタリズム」の偽装を見いだして、西洋と東洋(特にイスラム社会)の対立は捏造であるのを示したが、これはかなり新鮮だった。ISBN:4582760112

私の人生を表現するなら、出発と帰還の連続です。出発は常に不安で、帰りはいつも不確かなのです。 Power,Politics,and culutere 2001


佐藤真のドキュメンタリー映画「OUT OF PLACE」”エドワード・サイードの遺志と記憶”をアテネ・フランセで観てきた。パレスチナイスラエル、アラブとユダヤの敵対関係として設定されたアイデンティティ・ポリティックス。その歴史が今に雪崩込む果てしない境界。ボクらのアイデンティティ-Memoir-を彼はボクらに問いただす。

映画そのものは、途中インタビューが散漫になり、エドワード・サイードへの核心に迫る訴求力がなく退屈なものになったのは残念だった。ラストシーンではダニエル・バレンボエムのシューベルト即興曲で幕を下ろした。コロンビア大学のメモリアル講演の演奏だった。

あるべきところから外れ、さ迷い続けるのがよい。
決して本拠地など持たず、どのような場所にあっても、自分の住まいにいるような気持ちは、持ちすぎないほうがよいのだ。

遠い場所の記憶 自伝自体は基本的に失われたあるいは忘れ去られた世界の記録であり、サイードを形成してきた世界や時代についてのメモワールだ。

オノレも今はその境界の外にいるのだが、上の言葉は逆説的で辛すぎてdesperateなのだろうか。現実と私の差異と不一致を持ちながら、これは分散しながらもoperateされながら、ある方向の外から内へと招いているのではないだろうか。(うまい日本語が見つからないです!)

意識の底で此処の外でなく、現在から一歩二歩とこの内に進むべきだと思っている自分に気がついた。驚きだ。エドワード・サイードの呪縛と制度を乗り越える未来への指針とは逆のことを映画を観ながら考えていた。故郷喪失者たるオノレとしては全く予期しなかった。かと云って「在日日本人」などとは云うつもりはまったくない・・・。故郷。重い言葉。どうかしましたか?わたくし。

で今、追記(06/05/24)なんだ・・・。
日の一日経っても「祖-Memoir-」ということが離れなかった。おいおい。仕事に押されているではないか。んでもこれもしっかり肝心な訳さ。

でもこれは故郷ということではないもっと別のものだ。ルーツやアイデンティティではないもっと別なもの。 Memoir が階乗的にmodulate その転じる前後に深さに潜む体系のこのここに居るこの場。ってところまでもってきた。ただの故郷ではあんまりだ。so longって云ったって「祖」が無くなるわけないさ。


そんな<場>の「境界」にいたら・・・
Claude Monet - 新生★KARPOSの人々が眼に止まった。
こちらの境界にいる人々は満面に微笑みながら目を輝かせて、睡蓮の池に見入ってる。同じようで違う「境界」に立つ人。そうしたらこんどは一気に立ちすくむ、かたち、なぞる - インターネット神学 「あなた・わたしの属性に関する雑考」の情景を思い出した。やはり「境界」に立つ人。うぅ〜ん。ボクもある意味でのコーナーを回って岬-point-が見えてきた。思わず唸った。