祈りについて・シーニュを越える
水が「み・ず」という響きと同じくらい水が好かった。
海が「う・み」という響きと同じくらい海そのものが好かった。
年を経たある日。
I・N・O・R・I にであった。
ずっとまえからボクの中にあったのかも知れない。
だがそれは、
- I・N・O・R・Iが
- 事(こと・what)の事象を越えて、
- 方(かた・who)を象って現れた。
このふしぎは喩えようがない。
苦しみが確かに刻まれているように、さらに
-
-
- その上に(どこに・where)
- 救い(何故・why)が
- 今も(いつ・where)ボクに
- 喜びとして刻まれた(どのように・how)
-
というべきか。この層の容態は実にふしぎだ。
「い・の・り」が〈祈り〉の、象ることや意味されことを超えて、
言葉自体を越えて人となられた。だからそのものの内に呼びかけがある。誰でもないこのボクらに呼び掛ける。<祈り>「い・の・り」と<イエス>「い・え・す」とが重層するのか。<祈り>が聖霊の働きに動かされるだろうから層というよりもある「位」であるということになっていく。その今日が「三位一体の主日」だ。あらら!聖書には三つは一つにとは出てこないが、祈りのなかでこそこの三つが一つに見えてくる。
まさに言葉実体を開いてゆくことに新たにして、ボクらがボクらを越えるものに招かれる。
ボクらの内にやどられた(ヨハネ福音書1)。
だから、
さまざまなもの、私の中にあるものをバラバラにするというより、
一つになるということさえ越えた体系が
そこより離れ脱し、自由というより自由度を増して露わにされる(deconstruction)。
この境界をも越えたところのたしかな場。
ここに居ていいという安心がまっさきにある。
越える者(わたしがわたしを越える者として)があなたに救いの手を差し出す者に
あなたは、
あなた自身をあらたなものとしてあなたを注いで下さる。
海が「う・み」である以上に海が好だ。
「み・ず」が水である以上に「み・ず」という響きが好かった。
だから、
「ありがとう」が「有り難い*1」以上に「あ・り・が・と・う」と感謝する。
*1:We must not take it for granted