Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

与えられたもの

〜新しさと記憶について〜


分化

雨が強かったのか。風が烈しかったのか。草花のぐったりと萎えた静かな朝だった。その回りには未だに妙に生気が漂っている。吐息が聞こえるようだった。植物には息づかいというものがあるに違いない。雨風の勢いというよりもむしろ生の勢いで植物自体と葉が共に絡まり重なり合っている。ていうかボクもその流れに納まっている?現実に与えられたもの。

スローストロボで撮ったらブレてディテールが面白く抽出した。生の躍動のふんわりが浮かび出た。ボクも摘み出されるふうに。ボクのイメージがはじめにあってそれを映しこむのではなく、撮すことによって潜在の働きが見るものとして露わにされる。あるいは〈もの〉にフォーカスするよりも〈こと〉の有り様にフォーカスする*1と云うべきか。

つまり・・・ボクが草花にボクを映すというよりも、自己と客体の浸透した一体(体系)から植物とボクと言葉や感覚とがふんわりと柔らかに分化され抽出される。それぞれが今ここにこそその植物から立ち現れるのではなくその植物を通して露わにされる。だからある宮(器・かたち)に既にある言葉や感覚が注がれるということはある見方の容態であって、その所謂形相がもしあるとしても?そのものまでもすっぽりと全体をも述べることで形相と言葉や感覚をまた違う別の一つの容態として語ることが出来はしまいか。

新鮮ということはこのことだろう。新たなるものの中身自体が主語に向う。つまり新たに述べるられることが主語に雪崩れ込む如くに。

だから・・・

    • 知らなかったことが引き出される。新しいこと。
    • ボクは対象の立ち現れるものに一切手出しはできない。
    • 「聴けない言葉は、発音は出来ない」とだれかどこかに書いていた。

ことを覚える。誰が。あの人が。この人も。このボクも。ていうか思惟我ということ。だから独我論ではない。

記憶

それが次に写す(表現する)ことで分化され抽出される。この感覚を言葉をボクが発話している。そうだとしたら・・・いったいこの感覚はボクは何時何処で知ったのだろうか。記憶の自覚より先だってこの感覚をボクが先づすぐに発話出来るということのふしぎ。感じて語るこの記憶はどこから来たのかという知覚。つまり感覚を後に構成している。ではあるいは何処かで何かによって感覚が刷り込まれたというならそれは何時なのかと。ではその刷り込まれる前にはボクの記憶と感覚は何であったのだろうか。

しかし、更にもう何にもなかったようにボクは歩いていた。・・・露わにされた植物とボクと感覚は何かに向って一体に纏まり始める。だから経験とは構成する前にあるというべきか。あの場所を振り向いた。やはりボクは対象の立ち現れるものに一切手出しはできない。また経験は構成する後にあるというべきか。
アガペ会の春の合宿での「告白」講読をぴりぴりと思い出して再読してみた。アウグスティヌスは記憶についてしっかり直球で言及したのだと。*2。もう来月は夏の合宿である。

*1:こともあろうにと云うべきかあるいはやはりと云うべきか。あのアラキー(荒木経惟)が述べている。「現実の〈もの〉にフォーカスするのは簡単だ」と。「むしろ現実の〈こと〉に焦点を当てねばならない」と。

*2:「告白」第十巻第五章-人間は完全に自分自身を知ることはできない-〜第二十六章-神はどこに見出されるか-