Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

秋の朝にこそ夕ぐれ

からだはふしぎである。「秋は夕暮れ」とはよく言ったものだが、しかし体が冷え切っていると朝日を見ても「夕暮れ」を呼び起こすことがある。西行に「心なき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕ぐれ」という歌がある。「あはれ」と云うにも、西行が出家し隠棲した身の上だからと云って、何もうらぶれた訳でもなく、また時の過ぎゆくことに世をはかなんで尚古したのではない。この上三句は、むしろ超然とした面持ちの中にも平明な表現として、直截な今に生きる西行の〈心の疼き〉を知ることが出来るのではないか。平明に自分の〈疼き〉をその儘に夕ぐれに投げ放つ。自由や自在とはこんなことを云うのだろう。そうでなければ「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中山」と急峻な峠道を生きぬくことの出合いとして西行が現すはずはない。だからこそ、〈心の疼き〉を希釈する上でもかえって西行の「心なき身にも・・・」の歌は、日を終える秋のしじまの迫り来る夕方より、一日の始まる秋の朝の清々しさにおいてこそ、一層味わい深いものとして印象づけてくれる。