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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

物語とは何?

さて辻邦生を読みながら思った、果たして物語りとは何だろう? わたしたちが使うありふれた言葉を織り込みながらある者が他者に物語るということはどういうこと? あるいは小説(小さな説)はわたしたちにどう解きほぐすのだろうか?どうのように物語はわたしたちに役割を果たすのか? 過去、未来と今のわたしたちを物語るがやはり、今においての今、過去、未来だということである。また常にわたしたちの過去未来も再構成されて今を継続していくのだろう。際限ないが仕方がない。時間というふしぎ。

そのように大上段に構えなくてもあるいは曖昧なことでもなく、ちゃんと日常の生活で、悩むこともなく明快にまた確かなこととして、言葉は「伝える」という役目を行えばいいとわたしたちは思いがちである。これは正しい。だから誰にでも簡単で分かり易い言葉であればいいのだろう。「これは白、あれは赤、今わたしたちの世界には赤が必要だ。しかしこの赤はかなり原理的誤謬に満ちているから、相互構成的である方が望ましい。赤の明度と彩度を考え直して下さい。このままで困りますから。」それで物を買ったり売ったり、必要なことを伝えたり話したりして十分とはいかなくても相互理解を深めている。
だが、そうだろうか?それだけでわたしたちは言葉を使っているとも思えない。何故なら言葉は生きている。変貌する。赤が何故赤なのだろうか。赤が赤を好まれる歴史的な背景があり、また赤というものがわたしたちに関わるピュアーな感覚がある。感覚にないもので悟性にないものはないのだから。わたしたちは新たなる接触を感覚というものでわたしを超えながら促されていく。また赤の隣に緑があって、その関係で赤も赤ではないということになりうる。朝の赤と昼また夜の赤はそれぞれに違っている。言葉は日常と既存に纏わりくっついているから、きな臭くややこしい。「おでん」と云うとおでんでしかない。ショパンだというと感傷へ気持ちを誰も多少誘うのだ。
あるいはネットなどで「愛」ということを検索する。で結果「愛」の検索が抽出される。これで「愛」はオッケイ!。だが「大切に扱う」ということも「ていねいに扱う」ということも、様々な文脈と背景で愛ということであるのを忘れてはならないが見落としてしまいがちだ。
言葉に対するわたしたち自身がどこかで硬直的になり、こともあろうに教条的に陥り、教養的な摂理を紐解くものとなると、何れ人間そのものの存在の閉塞に陥るといっていい。単純に云うとそこには自由がないのだから。

またその自由に関して違った言葉の次元というものもある。若者が云うに、「こないださ、『今日わ』って書いたらさジジイが『それは今日は』だと云うんだ。『だから、マジあんたには今日わ』って書きたいんだ」と。これは文法や言葉使いを知っている話ではない。「今日は」と「今日わ」がどっちが正しいかということは話せが分ることであるが、その若者は「なんで今日わ」をジジイに云いたいのかということなのだ。それこそ、マジに若者は「今晩わ」で何故いけないのかという、言葉の表現行為によって日常の流れを乗り超えようとていることだから。そのように人は個別の現象を繰り込みながら判然としない世界全貌をこの現場!で掴もうとしている時がある。わたしたちは、言葉において物語を通して現代の今を繰り越そうと新たなわたしたちそのもののを深い享受に動かされながら、わたしたち全体を捉え直そうとしているからだと云うことができる。

こんなことを今晩書いたから「地の掟」の話はまた次ということになった。しーゆー。