Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

ふたつの「かかわり」について

さぁ話をはじめましょう! 人とのかかわりについて(だんだん見えてきました。また見えなくなるかも知れません。まずは誰かと誰かが居るところからスタート。そのうちに自分対自分の関係ということも・・・)ぼちぼちいってください。

実はmyounaさんのエントリーのあるくだりの「融合と分離」のところに留まりました。それをボクのフィルターに通して、今までボクが少しづつ考えていたことや貯め込んでいたなかなか形に出来なかったことがあって、整理してみたらこんなものになりました。だからmyounaさんの記事の解釈や感想ではありません。でもmyounaさんありがとうレポートということになります。http://d.hatena.ne.jp/myouna/20061213/p2

内へのかかわり

  • キーワード:情動 融合 分離 融合<>分離
あげつらうとおべんちゃらの例

(これはmyounaさんの記事にはありません。どうしてかこんな例から出発です。)

人のことをあげつらったり、なじってばかり・・・の人がいる。

逆に、そうだそうだな〜んて、つるんつるんに褒めておべんちゃらに磨きをかけてばかり・・・の人がいる。

よいものは味は残らない(ように感じる)

よくある光景です。程度の差はあれ、これはよくありがちで、人との関係のようすをよく表しています。というのもわたしたちの<かかわり>は事柄の内容より情緒に支配されやすいからでしょう。事柄に対する見解の是非であるのならば、意見は意見、感情は感情と乖離できるのに、そうはならない。つい感情とその事柄とが癒着(融合)してしまいます。どうしてこうなるのでしょうか。いつしか事の内容に先んじて人の感情がその事柄自体を牽引します。ついにここに纏わる人間関係は「間・境界」が無いということになってしまいます。でも人って、ふつう誰も好きや嫌いがあってあたりまえで、やなとこいいとこ皆なあるのですから、感情を無視することは出来ません。くっついて絡んでしまうと尾を引いていつまでも消えないものです。なんとも後味が悪いものです。

何事も味はよいほうがよいけれど、味はいつまでも口に残らないほうが良いでしょう。「後味が悪い」という言い方はよくします。後味ってなんでしょう。当世「後味が良い」という言い方をしますが、あまりボクはしません。でもこれって「味が味覚として残ってない」という意味なのでしょうか。つまりよいものは味は残らないのです。もう少していねいに言うと、後味ということは味覚の感覚でつくられる情感の清涼感のことでしょう。

情念とわたしと

一口に感情といっても、知覚における感覚や情感あるいはわれわれを根本から動かす経験に根ざす情念というものが作用しています。
好意の反対は悪意ではなく無関心であるとも考えられますが・・・しかし、わたしたちは決して強い悪意などをいだかなくても、ある人について好意的でないものむしろ否定的な感情を持ち続けたりすることは、どうやら経験的に知っています。情念の指示する言葉と記憶がわたしたちにあるからでしょう。

というのも・・・、

感情が事の内容から派生したものか、あるいは何かの折りに背景づけられた感情なのか。きっかけは何れにしても、やはりさまざまな情動という体の中にわき起こるもの-萎縮や解放-逃避や接近-などの動き-から形づくられる恐れや怒りや喜びという情念がつねにわたしたちに作用しているからでしょう。

とりわけ、自己(自己の存続)に対する危うさを予め防いだり回避するための「恐れ」。その情念の中にわたしを指示する言葉たち(非言語をふくむ)はいつも再生され更新されますが、この経験値に基づく<恐れの情念>はわたしを指示する言葉の他のどれよりも有効でわたしたちの記憶に深く根付いて、それは強い力さえもっているようです。それが情感という感性を培いながらも、わたしを深く突き動かそうとするのでしょう。

それにもましてもっとわたしの全体を見わたすものがわたしたちのどっかにあって、ある力で同じくわたしを予見し挑発し惹きつけるようと、情緒という海原をわたしの中で揺すぶり波打って騒がせているのでしょう。ですから、悪意を懐く訳ではないがかといって好意も全然持つこともできない相手に対して、恐れないまでも不安な思いのある場合、無関心を装う行為は好意の反対語であると言えます。

・・・なんだか深い話になっていますが・・・まったく心理学のような話するつもりは毛頭ありません。それは向学心を満足させますしある意味でそれも有用でしょうが、深刻に道理を諭されても、すでに絡まった糸を解すには有効ではないでしょう。どうしたらほぐせるのか。その方法、つまり生きるための方法を模索しているのですから。ほぐれずとも疲れ人は時と場合には椅子やもっとも安心できるベットを求めているかも知れません。(もっともボクは布団です)

しかし情念にはわるいものもあればやすらかな平穏に至るいいものもあるのは確かです。それは痛みによって絶望をつくる過去にもなり、喜びによって希望をつくる未来にもなるにちがいありません。だからまた真摯な意味である人への思いそのものもつくり得ることになるのでしょう。
決してわたしたちは情動のみに動かされてはいるわけではないでしょうから、消しがたく否定できない情念がわたしたちを促している光景はよく目にするものですが、わたしたちはあらたな者としてわたしを超えようとすることを経験しています。それがわたしたちそのものだということでしょうが、わたしたちの〈ペルソナ・主体〉はつねに内に深まりまた外の世界に露呈されています。

かならずしも道理を必要としない

〜少し休憩のお茶ブレイク〜
ふと気づくとおもてで遊んでいる子供たちの甲高く通りのいい声が聞えます。きっと中庭の向こうに声が反射して、ぐるりと庭の真ん中で回っているのでしょう。磯辺にうち寄せるさざ波ようにとりたてて耳障りにならない程度に和らげられた響きが部屋にやって来てやがて壁に吸い取られて消えていきます。また何度となくくり返す波毎にしーんとした音がそのつど後を追ってわたしをつつみます。おっといけない!このままでは。ふと何か用事があったことを思い出すように、ぼんやりとしていたわたしは膝をたたきます。気持ちの切り替えるきっかけを見つけてすっかり暗くなった部屋からまだ薄明かりある表に出てみました。冷たい風がわたしを待ち受けていると思っていたのに、風はなくぴたりとした空気があって、あたりは何もかもがそよりともしないでいます。なーんだ。あてにしていたのに。見ると眠っていたかのようなイチョウの葉だけはようやくさらさらと目覚めてクリクリとまわりはじめました。路地の向こうから先ほどの子らの声。奥まった暗がりのところから豆腐屋の呼び笛が地を這って流れてきます。わたしはまた、おっといけないとつぶやきそうになって豆腐屋が明るいところに出てくるのを待っている。やっぱりそうだったなと眺めるのでもなく気持ちを収めてきびすを返します。ほっとしてセーターの襟を正すと思わずおっといけないと声に出ていました。こんな日にはあったかいお茶を気持ちよくみんなで静かに呑むのにかぎります。

ここいらで、ほんとに少し濃いめのお茶でもいただきましょう・・・。

・・・ゆっくりしたところで、こんなちょっとした寓話を思い出しました。

乳母車にいる幼児が泣いてどうにもなだめられなくて、
その乳母は、その子の性格まで考えて、
しまいには遺伝のこともひっぱり出したあげく
その子の父の素質をいろいろあげつらい、
にわかに心理学者を振る舞っている間に、
ふと彼女は乳母車の中にピンを見つけました。
「あら、まあどの人もここ家の者はしょうがない・・・」
と声を荒げたそうです。

意識しすぎるわたしたちとそれぞれの情念や情感には、すべてに因果の道理があると思うのは無理なようです。痛みの原因のピンはとんでもない意外なところにあるではありませんか。寓話や箴言はある意味でわたしたちを拘束して自由にしてくれません。話したのは別段、「かくあるべし」ということをボクは言いたかったのではなく、言いたかったのは、人は物事にあまりとらわれすぎないで、多少らくにかまえたほうがうまくいくということです。

わたしと他・境界・うまい質問

では、また「かかわり」の話の続きです・・・。
わたしたちにはそのように促されて、穏やかな真実や明かな苦しみの事実を経るのですが、他とのかかわりは個と個のあいだの「間」ということを必要とします。個であるから間があるとも限りません。その間をつくる境界は重要で、その「間」の境界は他の者との「分離」ということです。しかし自分と自分自身がうまくいっている時には、外にぎくしゃくしたものがあっても意外とわたしたちは安定して平常でいられるのをよく知っています。人とのかかわりの諍い以上に自分とのあらそいの是非が、様々なかかわりをうまくする鍵になります。個であるわたしが他となんらかかわりをもたず一つとして完結するものなんてそうそうなくて、やはり全体あっての個であるわたしの場合がほとんどで、そこに集い合う「融合」が意味づけられます。一緒に話もしたくない他人だからうまい質問がいるのでしょう。でも質問のないところには、よい間もありません。

外へのかかわり

  • 融合<>分離 総体への更新

ここで今回のエントリーの全体の見取りを説明しましょう。
「内へのかかわり」は、情動や他者からわたしを中心としたわたしへの方向の性質を持つ「関与」で、「外へのかかわり」はわたしを超えてわたしを取り囲む社会や世界に方向の性質をもつ「関与」と見ることが出来ます。前者の「内へのかかわり」においては自己と他者の関わり、後者の「外へのかかわり」においては、「融合」「分離」との構造においての相互の関わりです。ふたつのかかわりの両方に、静=融合=A と 動=分離=Bをもっています。ともに静=Aと動=Bをもっています。

    

総体への繰り越し

<外へのかかわり>では、「融合」と「分離」が共に可能かと言うよりも二つが不可分であると言うほうがよいかも知れません。つまりその都度個々の分離というものが融合とともに、調和しうるわたし全体の総和を秩序づけて更新するからです。だからうまく次の現実のステージに全体が繰り越される時はうまい「分離と融合」のより良い人間の関係性であると言えます。その意味で融合も分離とは不可分だと言えます。

実際は、この秩序する総体が繰り越される現実の新たなステージでいろいろな出来事が起きることはすでに<内へのかかわり>で述べましたが、まさに「融合」と「分離」自体に生起する摩擦や軋みよってそれぞれに情動から起きる情念が新たにわたくしの総体の知覚を更新しようとします。つねにこれらの感覚はわたしの全体に秩序づけられる為に享受され繰り込ますが、刺激的な情念の感覚は調和を好まずなかなか全体に収まることなく、つねに情念の記憶としてわたしたちに残ってしまうのです。

いやはや。それでもこの記事のなかほどで話しましたように、わたしは理性的な思弁の命題を紐解こうとしているのではさらさらなくて、また道理をさがして「かくあるべしと」いうつもりもないわけです。ただどうのようにして、今のわたしが絡まらないように、物事にとらわれないで、すこしでもより「まし」なことになればと思っております。「まし」とは、とりもなおさず生きるなかで絡まないで「穏やかな真実に出合うこと」だと言い換えたらよいのでしょう。果たしてどうのようにして出合うことになっていくのでしょうか。だんだん見えてきましたがまた見えなくなるかも知れません。

むすびにかえて

このエントリーはこれで終わりですが「総体への繰り越し」あたりが舌足らずになったこと、そのへんでやや悲観的なものになりました。このまま終わろうと思ったのですが希望を持つために、以前のHPの記事を少し手直ししましたので時間でも出来たらば続きに読んでみて下さい・・・ぼちぼちいきましょう。

http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20050726/1166383120 児童書に関した話なのですが、「ありのままのわたし」。「平静であるわたしとの握手」なんかの内容です。手直ししを書いていて気分すっきりしました。この方が私モードのようです。さぁこれで希望がもてますように。ではまた。しーゆー。お元気で。