Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

On Late Style: Music And Literature Against the Grain

しばらく生業を忙しくしてゐました。相変はらず誤字脱字アーティクルにようこそ。ぺこ!

◆先ずはじめに辛いお話からです。
E W.Saidの翻訳者「人文学と批評の使命」村山敏勝氏が昨年2006年10月亡くなられました。 享年38歳。お祈り下さい。

◆自分の英語力のスカスカ?度(英語力のなさ)をあえなく認識。でボクはハナから「美しい日本」語なんぞ目指すことは無いだらうが、いたづらに年だけは重ねるも、三日でだめでせうが言語やるならタイのあたりの言葉をやりたいですよとモノローグ。ニュージーランドマオリ語なんかもいい響きみたい。だうもマオリ語の聖書のオンラインリソースが存在するやふですね、たいしたもんだ。読書しても、原語をパズルの如く読み解きながらどんどんこつちが迫るのか向かふがこつちに迫るのか、ともかくたまに頑なに迫るものいいものですよ。 分からないからといふよりも分かりたいから読むのだらう、分かつてゐるならその必要もありますまい。元来活字を追うのが好きな上に誤解と曲解との雲のはざまからかつて幾状かの光明を見た経験も多少ありませうから、ある時リテラシーの必要も感じゐる訳です。気力ではなく能ふる力です。読み解く力。やはり意志でしょうか、たいせつなものって、人間の。だから思ひ立つ日が吉日なのです。

はるるさんid:nihongo>の英文読書の影響か!あの方の読書量なんざ、まったくどうなってんだ。本のウワバミさんてば最近忙しそう・・・お〜いてば>

On Late Style: Music and Literature Against the Grain


◆さてサイードです・・・

境界に立つ者は内にありながら常に外に居るのではないだろうか。エドワード・サイードは嘗てボクらに問うた。というのも、まさに人生は出発と帰還の連続だから。サイードは西洋知において「オリエンタリズム」の偽装を見いだして、西洋と東洋(特にイスラム社会)の対立は捏造であるのを示したが、これはかなり新鮮だった。
Out of Place: A Memoir - Emmaus’・・・

何故西洋知においてという限定だったのだろうか?あの時無意識の内にそう書いていたボクがいた。今思うとすごく不思議だ。
E・サイードEdward Said)、音楽に関するもの(音楽文学美学批評などなど・・・)読了。ぼくはE W.Saidのいい読み手ではない…彼の批評は嫌いではない。というかボクが政治がそんなに好きではないことと同等の意味において彼の批評は嫌いではない・・・。

彼が云うに…事務的な手続きや一つひとつのアイディアより全体の行いパフォーマンスが大事と言ってるよ。
それによって他(者)と自己はTransgressiveするからだろう。・・・ということになっている。境界をなくすのではなく、境界に入りながらも境界を脱する。かなり難解というよりも難儀ですよ。これって。
この言葉<google:Transgressive]>に彼の全てが集約されているかも知れない。<境界に侵入するような>や<脱領野的>でしょうが、どう訳します?あるいは複数の声部との掛け合う干渉のカノン形式とも符合する意味もあるのかも。この本は音楽に関するならサイード「ISBN:4622071150:title」の総まとめだということになる。<[Google:Elaboration>推敲・錬成の仕上げ。なるほど旨いねこんな言葉の選び方って。でも対象がやはりヨーロッパ音楽だということに首を傾げてしまいます。


◆ともかく…
今回サイードに対しては辛口になってしまった。何故だ。個人対社会、モラルとしての識別、多数対少数の権利、政治的な抑制などなどを自らが発言していった他に類例をみない行動。西洋と東洋の対立は捏造であることを指摘したのは他でもないサイードなのだが、このサイードの人間主体と行為は常にヨーロッパと非ヨーロッパ構図の稜線がかなり遮ってどこかに自己に否定的で、彼の中心のヒューマニティを限定していて、自己と他者に敢えて境界をつくるのは何故かな。可能性はあると思っているけどね。
だからより極めて彼はアンガージュするのでしょうか。ここにボクは正直苛立ちさえ感じるのだけど。自己を自己たらしめるために。これはボクらの問題でもある主体のない自己を世界に見出す作業。あいかわらず音楽においてもお喋り的な蘊蓄傾けなサイードです。食傷ぎみで落ち着かない。←また辛口。


◆これ読んで何より良かったこと、サイードがあれだけグレン・グールドを好きな理由が分ったこと。サイードこそ=グールドだという方程式が成り立つ。ふむふむ。彼のグールドに対する敬愛という名の訴求力はジェラシーに裏付けらているとさえ思える迫り方。 id:karposさん、はるるさん、id:eireneさん> お先に楽しんでますよ ブリュノ・モンサンジョンの撮った映像、今見てます・・・またみんなで何時か会おう!
でも、実はボクはバレンボエム好きでないし、また彼(サイード)もピアノを弾くの好きなのは分るけどベートーヴェンが好きだなんてね、解せないよ。ボクはどうも初期のロンドなどを除いて♪♪ジャジャジャジャーンのあのてが好きになれない、以前にまして。まいっか。でこの本のペーパーバックも出るらしい。同じくグレン・グールド好きでもいろんな人がいますね。どうやらボクとサイードとは音楽の感性がまったく違うのです。分かっただけそれでいいのでしょう。

彼の求めるものは、調和と解決と妥協ではなく、むしろその差異、困難あるいは未決着・矛盾を、芸術において露呈させることにあるでしょう。境界をなくすのではなく境界の差異にこそ自己と世界を見いだすのかな。ってなことで間違いないかな。こちらの感性は共鳴します。しかし、ここに扱われる批評の対象は結局ヨーロッパだということ。やはり自己を見出すことは出来ないと言う悲観が横たわっている。

明解なオリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)知識人とは何か (平凡社ライブラリー)に比べてOut of Place: A Memoir辺りからトーンダウンしていったのですが、「out of place」から流れこむ色調をこの本に感じてしまいます。

境界の外に立つこと。辛いよ。これってかっこいいものではないよ(問題外だね・でもこれでいい)。ともかく、旅するものは枕するところもないのだよ。(って誰か言ってましたです)