Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

サイードメモ 人が知ることについて

◇変化こそ

今日は良い意味で印象的な彼(サイード)の「人文学と批評の使命」のメモから考えてみる。どうなるのだろうか。

変化こそ人間の歴史であり、人間の行動によって作られた、それに従って理解される歴史こそが人文学の基礎である。

ここまでは了解。

◇サイードメモ 知ることとは

さて先ずは、雨が冷たいと知るのは誰でもない雨に濡れたこの今のボクです。暖まりたくてスタバで呑んだラテホット&豆乳の温もりを知ったのもボクです。「冷暖自知」。つまり頭というオノレを通して分別するのではないのですね。かつて水上勉氏は水の冷暖は患者に呑んでもらうしか方法はないともうされた。水の冷たさを病人や赤子に説明出来る医師は居るまいとももうされたですが、さてこれはどうでしょうか。ともかく「冷暖自知」に沿えば知ることとは私でありながら私を超えるものでありましょう。それをもっと云えば知ることは他者の言葉に任せながらオノレという自己によって<思う>ことでしょう・・・

しかし、サイードは次のように云うのです。

人がほんとうに知ることができるのは人が作ったものだけである。言いかたを変えると、なにかを知ることとは、それが作られた際のありかたを通じて知ることである。

確かにそうだとも云えるのでしょうが、やはり何か「知」とういうことが勝っていて、さらに人間ということが余りにも持ち上げられています。むろん、人間性というか人間的であることを肯定するには異論はないのですが、いつもどこかで常に意識化を継続し知を増殖することにやや疲れを感ずるのはこの私だけでしょうか。
今夜もやはりサイード批判的メモになりました。もっとも↑これはヴィーコの公理によっているのですが。ではつきました駅に。まだ雨降っているようです。ではこれにて。