emmaus.hatenablog.jp

“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

ある振幅をもつ者・子規

気韻あるいは人間について

子規「墨汁一滴」〜「仰臥漫録」を読み終えて

やあ元気かい?って何とは無し云うので「ウンまあね」という言葉が返ってきたが、相手は顔色が悪くどうもスグレナい様子だ。「大事にしろよ・・・」というのも繕ったようで何だかヘンで、「どうしてる?」というと、「まあちょっとね」とまた顔を曇らせたので、何とも応えようがないのだ。

優しさってなんだ?って輪郭のはっきりとしないところから話し・・・あるいは瑞々しさと自分でいうのも変で、ともかくボク自身を向こうに投げかけるように・・・このところから話しをはじめる。

そのボクの友人は昔から愛嬌というか何時もにこやかな所がずっとあって、この時もニッコリ笑ったがその顔があまりに寂しかったから、別れた後振り向き様に後ろ姿をみやったら悲しくなった。ほんとうに悲しかった。元気な時はまるで時間がなくて、こんどは時間があってもほんとうを伝える時なのに詰まるところそれがなかなか言えない。今思えばそれはわたしとて同じことだった。勇気をだしてボクが言おうとしてホントの気持ちになった時、相手の友はもうこの世にはいなかった。そんな事がいくつか重なって、それが何かの癖になったようで寂しげなわらい顔がずっと苦手になった。今時が立って分ることはあれは彼の優しさの一つだったのだろう。だがその下には伺い知れないもっと心の真実があるにしても、なかなかわたしたちには見えてこない。もっと思いのまま話した方がいいのかもしれないが、なかなかわたし達にはそれが出来ない。そんな時代があった。いや時代のせいではないのだろう。そんなわたしの性格を見透したのかある忠告をしてくれた人がいた。感謝に堪えない。私なぞ本来はノー天気でおひとよしの性格の上、不思議と人からはよく見られるというどうしようもない厭なことろがあるのだ。父の亡くなった時みんなが先に泣くから泣くわけにはどうしても出来なかった。みんなを受けとめないとという思いで涙も出なかった。ほんとうはダメダメでどうするどうするの人間なのだが・・・・

子規「墨汁一滴」〜「仰臥漫録」を何度も読んでついに読了した。人からの贈り物は収賄であると言って贈り物は無用なものに尽きるという子規。そして誰からか貰った小さな地球儀を病床の天井に釣って眺めて楽しんでいる子規。あるいは叔父加藤拓川に金の催促をする子規。夜中あまりの痛みの辛さで起きあがって地獄の中で「ダメダメ」「しょうがない」と母とともに叫ぶ子規。翌日菓子パンを食っている子規。すべてが一つとして投げかける。振幅をもつ大きさが前にボカンと投げかけてあった。

さてやはり「優しさ」という内容にこだわらないでもう少しフリーな形で<このあるもので見えないもの>ということのある一面を問うならば、生来から備えた日常にある人の魅力というか愛嬌っていうものも含めて、この「優しさ」というものが、人間が生まれて後自らがだんだん培った気質みたいなものも含めた誰にもある<このあるもので見えないもの>の性質だということが出来る。漠然としながらも、「優しさ」の<言葉の振幅>の限界で語るなら、これは「慎み・潔さ」をも持ち合わせている性質のものであり、こう語ることは<このあるもので見えないもの>の実体をより際出せ少し輪郭を現してくれるように思われる。

が寧ろこの「優しさ」の周縁をなぞるよりも、もっとリアルな振幅でこの「優しさ」の内容に肉迫するならば・・・予兆はあったとはいえ、一気にボクらはこの<このあるもので見えないもの>に喚起され巻き込まれることになるのだ。これの「優しさ」の状況は一見したものより桁外れのものだとも瞬時に了解できる。というのも、ここにおいては実際、状況は逃げ場のないもうぎりぎりでばくばくで、もう時間なんかとんでも無くあり得なくヤバい状況を具体的に考えてみる方がいいかも知れないからだ。

そんな場合のあの人のほんとうに今辛い状態がともかく一方で想定される。当然綺麗ごとなんかでは全然なくて、廻りのみんなもすっかりドツボにハマっている。それどころか、正直いって何もかもが「もうダメダメ」「どうしようどうしよう」と「しかたがない」のくり返しのとんでもない真ん中の状態である。それでも又一方で確かなこととしてこの<このあるもので見えないもの>が何故か最終にはほんとうに憎めないものとして、滲み出るようなその人から出るありがたさがあるのもまた確かな事実なのである。それが余剰なものと見えても、でもそれだけにその最後の猶予みたいな残されたものとしてある。でこの二つの想定されるものが一つになって、それがその人が自ずと示しているもの<このあるもので見えないもの>だということである。人の有り様って何でもありだし事実そうあったのだ。

つまり、この手の「優しさ」は何も特殊ではないと考えるのが一層危ういし、事実人生は各人各様によって違うのだが、気づかないままの振幅をもつ人間そのものに由来する性質をなぞるだけになってしまう。表面的ですべてがバランスの取れた希釈された人間観察に終わってしまう。そんなふうには今は語りたいくない。人のパーソナルな性質の一般性としては語る事からもっとこの際一歩も二歩も踏み込んでこの場合は語りたい。語るのはもとより当然自分に対してそれを納めるのもおのれの内に。

そんな中で、きっとある「優しさ」のヴィジョンというもが想像出来ると思う。これはあるべき理想の姿ではなくて、見るものの確かな視野にその全体のものがありのまま結ばれるに違いない。ではじめに返って、優しさってなんだ?ってことを思いうかべて、この優しさって何?を少し形あるものとして考えてみたいと思う。でこのような「優しさ」にどうわたしたちは関わってきたのだろうか。
だからある意味では、この「優しさ」という<このあるもので見えないもの>に全くその正反対の転げ回るようなドロドロの号泣のある「醜さ」ということをここに代入されるだろう。この<このあるもので見えないもの>がすこし見えてくるだろう。この「優しさ」と「醜さ」の振幅をもつわれわれということをある時一度くらい、腹を据えて見つめてみる必要があると思う。優しさとその反対もの、怒りと憤りかの情念はひとつといってこれだと言うには及ばず、その情念の全体の『しるし』てとしか見ることしかできない。時が立つとほんとうがだんだん見えてくるが、分った時にはもうその人はいないというのは、まことに悲しいことだ。しかしいつも思うことは最終にはほんとうに憎めないで、滲み出るようなその人から出る<ありがたさ>は私が何よりも人を信じる『手かがり』としてあると言える。だからボクの友たちと同じようにボクに忠告をしてくれたあの人にはどうしても、ありがとうと言っておきたかった。