Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

希望の零となる時・子規

◇<心の自在さ>について<書く>こと

昨日長々しく子規についてかいたが、

「病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり・・・(墨汁一滴)」と真っ先に目に留まる。何よりも先んじて<書く>こと述べることが印象的だ。読み進めても、体は病んでも果たして精神は健やか安堵して肩を怒らせるところがないと了解される。だがその健やかさが、希望のなさを被う静寂という暗さに及ぶということでもない。傷心に浸るところもなくむしろ<心の自在さ>までが見え隠れするのはどうしたものだろう。

子規がいふことに。人の希望について、己の体から全く希望が失せた時。その希望の零なる時を記している。
「希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇はこれを救ひとやいふらん」
ある洞察といふか卓見。

人の希望は初め漠然として大きく後漸(ようや)く小さく確実になるならひなり。我病牀(びょうしょう)における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(ある)き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉(うれ)しからん、と思ひしだに余りに小さき望(のぞみ)かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早(もはや)我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零(ゼロ)となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦(しゃか)はこれを涅槃(ねはん)といひ耶蘇(ヤソ)はこれを救ひとやいふらん。
(一月三十一日)

青空文庫より
http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html