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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

季節を渉る <理・reason>

晴れすぎるほど晴れた一月も終わりの明るくなった峠の林道。少し日が長くなったこの季節に拠っていることを、光りの中で知る。春ののどかさは外から来たものだが、わたしたちの内から生じたと云っていい。

ジグザクしたトレッキングの途に、石の道標をいくつか越えると林の向こうに水位が下がっている池の水辺が迎えてくれた。飛び石が5つあった。何度も数えてその数に間違いはなく安らぎを感じた。何でもないことだった。見えるものを知ることは。そして見えないものをボクの内に収めた。知ることと分かることが一つとなって、かたちを観ることと観るかたちがボクの中を駆け巡る。もしこのようにして魂というものが幾分春の光の中で見えるならば、われわれの体と魂を分けることのありがたさがこの季節にあるのだ。あるいは、林の黒い土の微かな湯気に、もしも精神を感じるとしたら、それはボクら自身が孤独な内にも高慢さではなく、いかばかりかの「人間の誇り」をまだ忘れずにいる<しるし>なのかも知れない。それはボクではなく、わたしたちという人間に譲与されたものに違いない。

だが体と魂を分かつというプロセスを経る営みにもまして、明るい山の鳥たちの瞬時に飛翔する素早さは何とすばらしいのだろうか。思いと決心と行いという営みが同時にあるのだから。嬉しいのはその鳥はわたしたちの喩え話の材料ではなく、まさに鳥が鳥であることがうれしいのだ。

だからこそわれわれ人間の魂あるいは心は、分別の知り得ない、それなりの自分のある動機をもっている。つまり心には理屈抜きのある<きっかけ・わけ>をもっている。だから動機こそは、因果の法則よりも、もっともベーシックで<私>のありのままの人間存在の肯定と結びついている。

確かにわれわれがボクら自身でも説明しれないような理由-動機-の行いを為すことあるが、根源的でもありまたナイーブであるからこそ、それだけにより一層の自分自身に対する信頼とわたくしたち自身に対する<理・reason>を見いださなければならのだろう。 ・・・実にこの礼儀は自分にもまして他人の者に向けられており、内々の者には、それより気分や気嫌という気安さの情緒というものが示されると言ったのはかのアランだった。そのプロポでまた彼はこうも述べている。「なんとなれば情念はかくも人の前に表れるが愛情は面にでるものでない。このことを知らないのは人生の不幸である」と。 そのフレイズを浮かべながら、また<理・reason>をわたしたちの内にボクも取り戻しながら、季節を渉りながらわたしたちそのものの人の信頼を今一度知ることになる。


余談だが、昨年の今頃にも同じことを思っていた。

新たな年を迎えた。休暇はゆっくりくつろげた。よって日頃から溜まっていた疲れもすっかり取れた・・・。そんな中、常々読んでいたリール遊民夫婦の手記KIYONOBUMIE - 勇気と幸福(アラン)のエントリーに眼がとまった。

つづく--わたしたちこそ招かれる <理・reason> - Emmaus’