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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

子規について伸び上がる「気品」 

墨汁一滴のあとがき粟津則雄に沿ってのメモランダム!

子規には伸び上がる(自由な)「気品」がある。それは余裕から生まれたのもではない。彼には余裕を生み出す経済的背景と境遇はない。
・・・子規の随筆には子規の人間全体が、批評という意識を孕ませながら、のびやかに立ち現れている。(粟津)

此頃ハもう昼夜とも苦痛煩悶のみにて楽しき時間といふもの少しも無御座候 朝から晩迄晩から朝まで泣いてわめいてたは言など申して只地獄にでも落ちたやうに苦んでゐるとは御祖母様はじめどなたも御存あるまじく候 
〜子規叔父 大原恒徳宛の手紙〜

自在 relaxed とらわれない unconstrained

自己に囚われない拘束されない、眼が耳が先ずはじめにあるのではないか。あるいは聴くことが。思考に先んじて。
思考というよりも観察・聴取。あるいは眼・洞察。伸びやかさという気品・見つめること。眼こそ耳こそが自己と他者を分けてでもいるかのようだ。ある境界。その思い。その考え。それが感性の全体となって、彼自身を生かしながら彼の「」-人間全体-を作り上げている。
「病状六尺」の狭さにあることが批評意識と好奇心の自在な運動を支えている(粟津)
というよりも・・・水平と垂直は反意(対)語ではあるまい。ならば水平が時間・因果・限定で、垂直が空間・理・永遠と見なすなら・・・
「病状六尺」の狭さにおいても水平軸に垂直軸が加わると一気にその場の深さあるいは高さという批評の意識と好奇心の自在な運動を形成するとみるべきではないか。何故深さなのか。深さというよりも自由度としての次元が増すというべきか。この逞しい文章(批評精神と自在な心)は彼の健やかさと自然に支えてゐる。まさに自然体。自然体という立体ではないか。

であるから・・・

  • 自然体とは 奪い去られるというまさにそういう地点にありのままに立つこと。
  • 記録を綴る飽くなき表現行為
  • 人間の性情の振幅(止あるいは釣り合いの位置から最大の変位まで移動する距離)という気魄
  • 気韻といふことはこんなことなんだと思つてしまう。
    • 崇高という敬う程の気高さ、おごそかさ。品
    • elegance; grace; refinement;

健やかさ浮かび上がつて しみじみ(keenly; fully)として来る。


体の痛みや苦しみは物理的なことに止まらずやはり心や精神の叫びの場合でもある。だから余りにも苦しみや痛みをリアルに示されるとなると示されるこちら側としては実に辛いものがあるというのが正直なところだろうか。しかし、しみじみ(keenly; fully)が加われば。あるいは誠意。その痛みや苦しみがもう少し違った形を示すのだ・・・それが心持ちの違いや現実の回避によるものではなくて・・・それは、創作というものを超えてなお批評の意識そのものを備えてもなお瑞々しいさとのびやかさが無類の純度(粟津)をボクの前に立ち現わす。それが子規そのものだということなのだろうか。
たとえとして言うならば・・・ここが痛い、あそこが苦しいというそのまま現実を「水平」というある次元が想定するとして、もう一つの次元といふのだろうか、日常を組み込みながらもその垂直といふ類比される次元を加える。そのことによって全体像を見取ることでその痛苦を示されると何やら「深み(可能性)」を感じられてきて、こちらもその水平の痛みや苦しみも受けとめることが出来るようになる。
その垂直といふことはどうやら余裕から生まれたものではない。誠意(faith; sincerity私を超えたもの)。私がいて私が(で)ない意としての痛み。その私のない痛みとは何?そこに横たわる気品。乃至はその気韻とは。