Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

私と精神

「山」と「私」は言葉として同じ機能ではない。「私」の意味は、話を聞いているあなたではなく「私」と言っているわたしの人に意味づけられている。(「日本語の森を歩いて」小林康夫+フランス・ドヌル)わたしの主体が語る者-つまり発話者とわたしが一体の関係にあることだ。

その私がわたしの前にある山と私の内に立ち現れる出来事を知ろうとする。それによって、私の記憶の条件とともに私に起きうる思考や感情を通過しながら、ある行為を果たそうとする。これは私の現実の意識に顕わされた心においても、かつまた意識されない潜在する心の状態においても同じように私に起きる。

それがある状況の下で、培われたとりわけ心の記憶の全体つまり情緒に負荷と軋みを起こすことがある。この重さと軋みを正直に扱う事自体がままならない。この発話者の「私」が山に臨む時、雲間から覗いた山に向かって「山だ」と言ったとする。次に「スゲェ」っと言ったとする。この「スゲェ」とはなんだろうか。「私が山を見てその頂きのすごさに感動した」ということにしても、果たして私がすごいのか。山がすごいのだろうか。この感覚という感情は、間投詞としての発話「スゲェ」は主体と対象の融合されたままのいわば、感情の危うさの領域*1だと考えてもいいように思われる。私の感情の属性なのか、あるいは山のもつ気韻の属性なのだろうか。既に前述定関係の組織が顕らわれないまま発話*2、言うことの以前の発話!だということが出来る。

ここに新たに「言述者」という要素が登場する。だが、「スゲェ」に対して私は主体と対象を判断しようと分離を行う。この時私は、人間に直接に起きる原因を先ず探ろうとするが、次第にいくつかの原因の直接性を超えて、見えることより見えないことの中に「筋道というもの」を不思議なくらい強く求めようとする。この求める働きを「理性」と言うが、この「筋道」という理性の働きを<通過>する時の実体の性質は、ずっとその筋道自体ではなく<感覚を超えるところに在る>ものであり、ここに意志という後押しとともに勇気というものが必要になってくる。それによって既知が未知に吸い込まれてゆく。そこにある「決断」を下すことになる。
このあたりから「草枕」を読み返してみたい。「非人情からの眺望」メモとして。

森有正は次のように言っている。ヨナ書房森有正集からのコピーです。

理性=
感覚や感情のように真正直ではどうにもならないものが在り、このどうにもならないものを自己のものと化しようとする時に、人間の中には、直接性をこえて、不可見の、不可感の世界の中に、その法則を求める働きが起ってくる。その働きを理性と名づけるのである。これは決して高尚なことではない。けれども高尚なことは、これを通らずには起らないのである。そしてこれを経過する時に、本当の強さ、本当の実体性は、ものそのものではなく、ものの法則、すなわち感覚を超えるところに在る、すなわち精神に在る、ということが明らかになる。(1・383)

http://www.river.sannet.ne.jp/yona/mori.html

老年=
一方、勇気とは未知にかかわるものではあるが、いわば拡りは既に知れており、ただその深度と強度の点で未知なのである。後者つまり勇気の場合、既知あるいはその外延において既知になった未知の枠内において、強度の点で未知が存在する。この意味で、老年は勇気を要するのである。青少年はむしろ大胆の方に向いているのだから、老年は青少年のまだ知らないような大変な勇気を必要とするのである。僕にとって老年は静謐などではなく、年を重ねるにつれてますます激しく吹きつのって罷まない嵐に対抗することなのである。〜何となれば、老年においては、進むにつれて既知が未知に吸い込まれていくからである。(集成・5・337)

因みに、ヨナさんがこちらのブログにリンクを張られている。ありがとうございます。ヨナ書房http://www.river.sannet.ne.jp/yona/rinku.html

*1:「日本語の森を歩いて」小林康夫+フランス・ドヌルp189

*2:「日本語の森を歩いて」小林康夫+フランス・ドヌルp192