emmaus.hatenablog.jp

“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

スプランクニゾマイ

ところでRFKの特質について、ははるさんは彼の「成長する能力、体験によって変わる力」に加えて、こう言っている。

そして、共感するだけでなく、彼は、たとえ自分がつらくても、変わるべきときには変わることを受け入れられる人でした。これが、RFKを他の政治家が超えなかった一線を越え得た政治家にしたと思います。

のことです。RFKは他者との共感や共有の力の向上を上まわる自己変容を受け入れる能力において、稀有な人だったことをボクも納得したものの、RFKにはもっと核心めいた人を惹きつける謎-資質-があるように思った。

しかし次ぎにはるるさんの言葉

RFKの行動を支えたのは「スプランクニゾマイ」(イエス・キリストが貧しい人々などを見たときに感じる感情を表現したギリシャ語。はらわたが動かされるということ)だったのではないかなと、私は思っています。

で腑に落ちた。

プランクニゾマイ splagchnizomai σπλαγχνιζομαι 
これはキリスト者ならではの意味づけです。ちょっと日本語訳の聖書を読んだだけでは理解出来かねる。この「憐れみ」はいわゆる「compassion」というよりも「be moved with compassion for」や「have compassion」という動きを伴って使われます。深く「憤り」をもって憐れむというのはなかなか理解しにくいです。というもの、マタイやマルコやルカ書にもこの「compassion」は出てくるのですが今一「スプランクニゾマイ」とはすぐに理解しがたいからです。しかし明示されないこの「スプランクニゾマイ」の「はらわたが動かされるようなイエスの憐れみ」をも丹念に聖書を読み解くと、ヨハネ福音書には「compassion」の言葉自体は出てこなくても、11章ラザロの死に対する「スプランクニゾマイ・憤りをもつ憐れみ」というイエスを想起出来る、場面に突き当たって「憤り」と伴う解釈が納得できます。単なる「Compassion」の語彙の検索やシソーラス検索では抽出できないものですから、まさに「学びほぐし・unlearn」てゆくことの意味がここにあります。学びほぐす - Emmaus’

JOH11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 JOH11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 JOH11:35 イエスは涙を流された。

更に「憐れみ」で想起するのは、ボクの場合はシモーヌ・ヴェイユということになるのです。「憐れみ(compassion)のみが不幸の観照を可能にすると。不幸に打ち砕かれたる者はその不幸を観照はしない。憐れみ(compassion)が介在せぬかぎり、他者の不幸は不幸でない」と。

憐れみは自然的であるが、自己保存本能ゆえに窒息されられている。超自然な愛が魂を満たすとき、はじめて自然的な憐れみが自由になる。

解かれる憐れみ - Emmaus’

確かにキリスト者にとっては今の四旬節の祈りは大切なものです。映画も見たし私も静かな時が必要みたいです。自戒。