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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

幾つかの死の縁取り

茨木のり子がなくなってもう一年が経つ。未発表の作品が親族によって発見され出版された。「歳月」(花神社、2007年。夫Yが逝った後作られた、かたわれへの新たなラブレター(恋愛詩)。「恥ずかしいから死後に出版してほしい」と原稿は書斎のクラフトボックスの「Yの箱」に納められていた。三十九編。夫の死による空白と欠如は今もある互いの<生>の充足を示して、生者の言葉としての自らの内なる死の縁取りに向かう。四十九日の前夜に綴られた作品「夢」と添い寝は最後まで切なくて健やかで優しい。しかしいつもの潔さと落ち着きが感じられないのは致し方ないのだろうか。最後の最後になって、まるで父と母の性のなまめかさと未熟さを一瞬垣間見たというちょっとした驚きよりも、ただここに至って敢えて羞じらいをもって初々しく切々と表現(求愛をのべる)のあり方の、「疑問符」がふしぎな実感として残った。茨木のり子だけにこの純粋さが何だか「らしく」ない。ボクの中でぎこちなくうまく収まらない。茨木のり子 - Emmaus’

google:『歳月』(花神社、2007年)

作品のはじまりは

真実を見きわめるのに / 二十五年という歳月は短かったでしょうか

最後に

けれど / 歳月だけではないでしょう / たった一日っきりの
稲妻のような真実を /
抱きしめて生き抜いている人もいますもの

と結ぶ。作品「夢」の冒頭・・・

ふわりとした重み / からだのあちらこちらに / 刻されるあなたのしるし
ゆっくりと / 新婚の日々よりも焦らずに
おだやかに / 執拗に / わたくしの全身を浸してくる
この世ならぬ充足感 / のびのびと からだをひらいて
受け入れて / じぶんの声にふと目覚める

セクスには / 死の匂いがある

どこまでも健やかな夫婦の情であろおうと、やはり生は死に縁取られ死は生に縁取られている。死者にもう新たなものは生み出すことはない。だから語らないから死者には返って<力>があると言ってもいいのだ。敢えて「これが別れなのか。始まりなのか」とおろおろとした言述はわたしたち生者のみにしかもちえない。愛されていることを無言で受けとめずに、千万の思いをこめて死を限定せずに、死者をナイーブに縁取ろうとするのもわたしたちの一つの有り様でもあるのだ。

やおら身を起し / 数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした / 千万の思いをこめて
無言で / どうして受けとめずにいられましょう


一方・・・かつて恩師アランは悲劇の死を遂げた教え子シモーヌ・ヴェイユの「政党の全面廃止についての覚え書き」に対して彼女へのオマージュとして彼女の高貴において、彼女自身であったことに驚嘆と意味において彼女の「死」を限定し死を縁取ろうとする。賢明に死と生を限定し死者を厳かに縁取るのであろう。死は生に縁取られ生は死に縁取られている。

生者は、誤りをおかしても彼ら(生者)の問題であり、どうにかして切り抜けていくということだ。それにたいして死者は、ひどく打ち棄てられている。死者自身は何も語らない、そこに、死者の力があり、私たちを強くつき動かすのだ。アラン(稲葉延子訳)

時を遡ってアランの思索の中核である「デカルト」のなかでこう死者を述べている。

人間崇拝こそ死者を正しく葬る所以だ。われわれはここで賛成し、かしこでは否定し、要するに、彼がすべてを然るべきようには恐らく語っていない、その理由を、歴史の圧力によって説明しようなどと試みている間も、彼自身は光栄なるものの不文律によって、全的に今なお生きているのである。
デカルト研究 アラン 桑原武夫訳 p5

あるいは「デカルト」の訳者の桑原武夫は注解において、アランの「わが思索のあと」の死者への言述を丁寧に引用している。

死者が生者を支配するということを私が理解しえたのは、あの呪わしいさしかもたらさぬ遺伝説によってではなく、反対に敬虔と欽仰の情を通じて死せる人間における最もよきものが支配するという考えによってである。死者は石の下に葬るか、妬かねばならぬということは、同時に、死者の力衰えた心像をわれわれの心から消せねばならぬことを意味する。かかる心像を想起することは正しい想起ではなく、死者を殺すことである。敬虔の情とは、死者をその力と光栄のうちに復活することである。

さまざまな死の縁取り。死は生に縁取られ生は死に縁取られている。