Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

気づきについて

どうやら「考える」でもなく、「思う」でもなく、哲学でもない。「思考」でもないならば、思索でもなく思惟することだろうか。よーわからん。ともかく分かっているようで分かってない以前書いた「無我」のメモを振り返ってみようかな。http://d.hatena.ne.jp/Emmaus/20050806/p1

<内と外に関与することengage> <気づき>のメモ

キーワード:関与 気づき 注意

動きと静けさ

仕事の帰り、近くの子どたちがめずらしいことに、独楽を廻して遊んでいたからついでに一緒に輪に入って楽しんだ(アブナイ人代表ではないよ)。独楽を廻して<動き>が始まる時にこそ<静けさ>がすっと舞い起こる。それにもまして、動きを外から見るより動きの内に居るとみんなの静けさが増してくるのがよく分かる。居合わせる者に<動き>と<静けさ>がさざ波のように伝わる。内と外が関わる。だから独楽に集中するほどに静かなこの場所では人の行き来の動きが実によく分かってくる。一心に独楽の動きに気持ちは向かっているのに様々なこと、極端に言うと人の息づかいの乱れまでわかるように思える。

内と外に関与することの様相(phase/aspect)が見えてくる。

関与の内実

ヴェトナムの禅のとある仏僧の修行の<果実>に興味を懐いていたことがあった。その果実(つまり仏教でいう智慧と慈悲の体現)には「関与する engage」 という措定の仕方があった。それは自分の内外の起きることに「気づき」の体現だった。量というよりも質に重きを置くもので、この「気づき」には瞑想的な方向性つまり内的な方向と世界・社会的方向性つまり外的な方向の二つの面の性質をいつも一に想起し体現すべきものだから、どちらに傾くものではなく共にバランスをもって欠くべきものではなかった。

「無」の場所での体現

いわば、この「気づき」は、有るようで無く無いようで有る、自己と世界を隔てる幅の無い円弧の「無」の場所で体現するもので、やはりそれはいわゆる「禅」の本来あるtactful(機知に富んでいる)で、resourceful(融通無碍)の世界が見え隠れした。

それが具体的に展開出来ないで残念だとおもった。どうやらこの内省に重点おく行う「自己実現」つまり悟るということがどうもよく理解できずに、次第に「関与する」事からついには「気づき」から私は興味を失って遠くになってそれっきりになった。

注意

しかし「関与する engage」のあり方は、今も私の内ではどうも有効であるようだ。というのも「気づき」こそは、「気づき」に興味を失ったところからこそ、実に「気づき」が行われるという事が後々になって分かったのだ。今こそ出来ると思うがその最初に入ることが出来ないで居る。その出来ないのは自らの内外に対する<注意>というものの想起が無いためなのだろうと思う。実に一人語りの思わせぶりな無蓋な話になってしまったようだ。