Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

物語ること-あの袋の軽さ-

かろうじてあるハズのボクの思考回路(あたま)は役立たずだね。先週の「すってんてん」に居る方がいい。あるいは一方的で極私的?には信仰(イエス・キリスト)のところに居るとよく見えてくる。この極めて個人的なこと(あたりまえ)をどう全体に展開するかということ(限定を経て普遍に向かう)がボクにとっての「物語る」ということになるのだろうか。そうでもないと思ってしまう。根拠なしに。先取りするけど、元気なうちだけ物語れて元気なくなったら物語れないくらいならばそれは物語ることではないように思えてくる。誰か他者が物語るのであって、私に限ってわたしが物語るのはとんでもない無駄をしている気がしてならない。物語ることの必要は実にもっと他にあるのではないか。ならば、私でそれを超えて他者に触れることとは何か?

すってんてんはいいなとほんとに思う。元より人間の『知』は否定するべきではないが、いまここにある本や書類の要らないものは棄てるというより、もとより無かったもの。この世にあってあの世に要らないものばかりと妙にナイーブに思っている。棄てることなど出来いと分かっているはずなのに、自分に絡んでいる。『知』が物でないけど、もの(データ)としてしか残せない。そこに私であって私を超えるものの『知』が想起されてくる。それが他者に繋がって私が物語るということになることだろう。父は病院というところで亡くなったのだが、最後病室にあったものはデパートの買い物袋一つだけだった。で看護婦さんが「えと、もうこれだけですか?」と言われ、「え、そうですそれだけです」と言った。しかし、ぎっしりいいことわるいことを残していった父だった。だからそんなはずないですと言いたかった、がその時には他にことばがなかった。あの袋の軽さがずっと私の裡に今もある。