Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

<知>とは何か

だが死は生に縁取られ、生も死に縁取られて<種>の一体の流れがあって、その中で死ぬまで私が他者との関わりに意味を見いだすとして、あるいは情報の全体が分かちがたいものとして、私の<知>が働くならばそれはどういうことなのか。

三上さんのエントリー「本の読み方に関すること」を述べている。超迷宮としての本 - 記憶の彼方へ

ところで、しかし、私はそもそも路線図(目次)はもちろん、地図(索引)もない本が好きだ。というか、そんなものが役に立たない本が好きだ。人生に目次や索引がないように、というか本当は作れないように、というかある意味では死ぬまで作り続けなければならないように、私の好きな本は、わかりやすい入り口も出口もない、ある意味ではどこもかしこも入り口であり出口であるような、超迷宮(Super Labyrinth)のような本である。

それのコメントがある。

「やっぱり、いみじくも「私という迷宮」にまで繋げてくださったように、私という「特異点」は看過できないだろうな、と感じます。」

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070311#c1173756294

そうして<私>の関係性のある結束点もあるようだ。ひとつの<愛>として伝えている。

疲れたまなざしの無窮の時Guillaume Apollinaire - 記憶の彼方へ

ポリネール=堀口は独り善がりの「観念」や「幻想」ではない、止めることのできない河の流れのような人生の上に奇蹟のように架かる橋としてのミラボー橋=愛、儚く過酷な「関係」としての愛を見据えていた、と言えるだろうか。

<私>ということの他者に繋がるバニシングポイントを見たように思う。それは消滅しながらも次に拡がりをもつ私と他者のシーンがあると予感できる。