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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

<ずっと遠くに>と表現すること

三上さん(id:elmikamino)がル・クレジオの『歌の祭り』を載っけられてる。http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070325/1174845476

ル・クレジオのそれに纏わる話ではないですが・・・それにしても、言語についてです。
元来文字を持たなかったアイヌの人々は何と豊かだったのでしょう。

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら流に沿って下り、人間の村の上を通りながら下を眺めると 昔貧乏人が今お金持ちになっていて、昔のお金持ちが今の貧乏人になっている様です。海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓におもちゃの小矢をもってあそんで居ります。「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という歌を私は歌いながら子供らの上を通りますと、私の下を走りながら云うことには、「美しい鳥!神様の鳥!さあ、矢を射てあの鳥 神様の鳥を射てたものは、一ばんさきに取った者はほんとうの勇者、ほんとうの強者だぞ」
アイヌ神謡集

しかし口承だけの言語は侵略にあって危機に瀕した。感情や思いは後から来たのだろう。私が私たちを語り始めて、ここに物語ることの端緒である他者の関わりの意味が浮かび上がります。もっと云えばわたしたちには自己と対象が一体となった言葉-言語-というものいわば言語の原形質をなしていて、萌芽的に関係の全体性を示している現存的言語表現が見えてくるのです。

わたしたちが<ずっと遠くに>と表現することを、ズールー人*1は、<おお、お母さん、わたしは迷い子になったととさけぶところ>という一つの単語の詩的言語で言い表す。またフェゴ島*2の原住民は、わずか七音節の単語<両方の者が望んではいるが、しかし自分ができないことを相手がしてくれないだろうかと、期待しながら互いに見つめ合っている>という精密な意味を表している。言語の名詞や代名詞も独立性をもたないで原始という生活体の中に深く埋没している。このような表現は、私たちの分析的な思惟や内省を遙かに超えて、人間の根源な関係を生き抜くことのよるものである。
マルティン・ブーバー「我と汝 pp28」

敢えてザックリ云えば・・・。今でもこの<ずっと遠くに>が<おお、お母さん、わたしは迷い子になったととさけぶところ>でも<おお、お父さん、わたしは迷い子になったととさけぶところ>でもいいように思うのです。父でも母でも、そしてあの時のあの人でもあるわけです。私であってそれを超えて他者に触れること。それは消滅しながらも拡がりをもつ私と他者の新たなシーンが見えきます。

*1:Zulu 南アフリカカタール地方に住む好戦的な原住民バンツウ語族に属する

*2:南アフリカ南端に位置する