Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

嬉しくも風につき従うダメDavinci

キリストは「働きもせず、紡ぎもしない」野の百合を見よといった。従う素直さというより神への信頼と信仰の素直さを説いたのだろう。野の花が従順であるのは、風の力に素直に従うからだろう。そんな大風呂敷に言われると余計疑ってみたくなるのはダメ信徒の浅さましさだよね。自力でなく心配せんでええよとはまるで他力本願を説く親鸞みたいだ。一心に念じるよりもそれもどこか頷ける。
説く臭さは止して・・・それはそうと・・・ある画像の天と地を回転させて、更に反転させてみた。文字が書いてある形は分かるが読めない、でもペンが逆さまになっているのはすぐ分かるのは何故だ?(ペンに天も地もないから当たり前かい)あるいは新聞を裏返しにすると文字だと判別出来るがうまく解からない。表にすると文字の形象の情報を一気に単語と認識するよりもいっぺんに文章の内容を我が浅き知識に照応して、さらに頭より体が先んじて理解するのはオモシロい。因みにこの画像は「Wilber & Sons GIMP」と書いてある。
さて、よせばいいのにウィンドーサーフィンにオノレの歳を顧みず挑戦した。ゲレンデは神奈川の葉山。内臓がひっくり返って泡を食った。手ほどきしたインストラクターの若者は風も波もボードの裏の舵さえ瞬時に分かるそうで、舌を巻いてその若者をあらためてみた。読み書きの習いと同じように、ボクらの前に立ち現れる現象を、ある事柄に限定して見極めること。これってちょっとしたスキルだ。からだとあたまで学んでこそ理解できることにいたく素直に感心した。先の画像がいっぺんに解るのは特異中の特異なスキルだろうが、かのレオナル・ド・ダヴィンチは、何の苦もなくそれが判読出来たという。たぶん「働きもせず、紡ぎもしない」に読めたのだろうね。そんな大天才はいざ知らずこのボクだってサーフならば少し時間と努力を懸けてみれば出来ないことではない。これは慣れという問題ではない。文字を読める者にとっては赤いボールペンで書かれても青色や緑色であろうがすぐに不安なく読みとってしまう。どれも同じ内容であると瞬時に判断するのだから。だがまだ文字を読めなかったりすると、色の違いに拘って自分への負荷だけで疲れ果ててしまう。ウィンドーサーフィンでうまくいくのは、情報と知識と記憶が海という世界に触れてた時に判断が出来るからだ。知ってしまったんだよ。風を滑ること海を滑ること。どうせダメもと懲りずにやってみよう。そのサーフボードには「Davinci」と書いてあるのだ!!何だか頑張りましょうの自己啓発のようなエントリーになってしまった。まあこんなこともありです。