Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

この男に出会って

今週から聖週間に入っている。この「聖週間」とは、キリスト教の歴史的な祝い事を土台にした典礼、つまりキリストの受難と死と復活に至る復活祭前までの記念の式が行われる1週間をさすわけで。もっと聖なる時をわたしどもは過ごしているんです・・・。って云っても。そんな良い感じというか様子が街中で伺えないのは、日本でのキリスト教の浸透度はこんな程度だということを示しているわけだ。ここで「聖週間」の文字を見て、宗教や信仰などに関心がない方には奇異に感じてしまうだろうが、ボクにとっては全然普通なんだ。ともかくボクはかろうじてブドウの枝のぶら下がりのはしくれ、ダメなキリスト者(ダメもイイもないけど)であるわけなんだ。

・・・で復活祭の前、少しイエス・キリストを考えてみた。


この男を見よ! Behold the Man. jhn 19:5

エスの物語の筋書きや結末は分かっているが、それは文字で知ったこと。2000年前にタイムスリップしてわたしがその場に居合わせていたらどうなのか。やっぱりあんな髭面なのか、どうなんだ、でそんな風情の男を探して「もしもし、あなたはあのイエス様ですか?」と観光のお上りのアホみたいに訊けばいいのか。「それはあなたが言っていることだ。」と聖書のようにそっくりさん?の彼は言うのかな。元よりそれは即習のヘブライ語講座にでも行かねばならないのか。それより、どの男がイエスなのか。万が一運良く出合ってもは要はわたしにとって一体全体この男ホンモノ?イエスは何者なのだ。この男は御子だという。受肉し神性を宿されたという。それもわたしたちの間になった人だという。ならばわたしは何もないただの男。そのただのわたしにしてみればどう何が分かったのか、この男をどう信じるて来たのか。

<神から離れようとする>ひとつの力が存在する。そうでなければ、すべてのものが神だったであろう。
シモーヌ・ヴェイユ

ほんまもんのキリストに出合う、そうではない。だからこそここを離れることによって、その神からも離れる霊(心)としての言葉によって神の霊に照応する*1中で、この世界内で晒されてわたしは自己を前に企投しながらある在るものにキリストに霊に触れようとするのだろう。これは想像のことではなく。信仰とは情報の未知が既知と入れ替わることではないのだから、どこかでわたしは在る者の呼びかけを受け入れていたのだろう。ある時及びもしない事がわたしとイエスとの出合いだった。むしろある存在というよりも人の関わりとして、忘れ去っていた長い不在の人との再会だといえば分かり易いだろうか。

しかし、この男は近くにいながら、出会いと同時にもう一切から離脱しようとしているという感覚をわたしに示していた。わたしは次第に自分の裡に降っていった。二度三度とわたしは解体されていった。まるであのアウグスティヌスの十分の一?くらいに黙々と自己を顧みて降りていった。信じられないことだった。それにしてもわたしたちが出迎えた(ヨハネ書12:12)というのに、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである(同12:24)とこの男は言う。わが命をば愛する者はそれを失い、憎む(後に回す)者はそれを保ちて永遠の命に至るという。何としてもこのわたしたちからこの男は離れると言う。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう(同12:32)」とも言う。「いつもここにおられる(同12:34)」と聞いていたはずなのに。<ある者がわたしを招きながらわたしが近づくためにわたしたちから遠のき退いていく>。そんな光景にわたしはいた。

「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。光を信じなさい(同12:36)」と言ったがみんなほんとうに誰も信じる者はいなかった(ヨハネ書12:37)。光であっても闇であっても一層離脱しようとするイエス。示されるものはこれから先どうなるのかわたしには見えやしない「目で見ることなく、耳で聞くことなくその心をかたくなにされた(イザヤ6:10)」。ついに迫害され、逮捕され連行され尋問をうけた。この男イエスは茨の冠をかぶり紫の服を着けて出てきた。ピラトは「見よ、この男だ」と言った。みんなは「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ(ヨハネ書19:6)。

この男は十字架につけられた。十字架につけられ弟子が男の母を自分の家に引き取った。聖書に記載されているようにこの場面から次の章のページを開くと男の死と墓に葬られる場面に入っていく。だが次のページにある復活の出来事がわたしにとってはとんでない乖離があり、まるで永遠の時を過ごす感慨に晒されてしまった。この男イエスを信じるのではなくこの男の業を信じる。(ヨハネ書10:38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。 )あろう事か、そのイエスの復活というとんでもない贈り物(恵み)に出会う(与かる)ことになる。ある日わたしの内でこの男がイエス・キリストとなっていた。このイエス・キリストに貫かれて洗礼を受けることになっていった。あれからもう七年が経とうとしている。信仰がその人を救うというが、わたしの不信心なダメな性根はあれからどうなったのだろうか。まったく記念すべき時なのである。

*1:1Cor2:13 Which things also we speak: not in the learned words of human wisdom, but in the doctrine of the Spirit, comparing spiritual things with spiritual.