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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

為し遂げられる言葉

言葉には、相手に対する感慨や対象の客観的状況の説明や言述だけでなく、もっと言葉の内的な力が外に出て言葉自体によって時空間の現実の存在を完了し完成させるものがある。イエスの言葉の場合が特にそうだ。つまり発話行為の瞬間に現実の世界を成し遂げらてしまうのがイエスの言語の特徴であろう。これはイエスがその時の空間での他者への眼差の力となっている。
こういうと何かオカルトのような話だと思われるだろうか。そうではない。

この明示される完了(完成・遂行)行為の言葉は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した ルカ4:21」が一つの例だろうが、そうなんだと・・・分かったようで専門家しか分からない。

いっそボクらの廻りを見わたす方がいい・・・
神父が花嫁花婿に「神の祝福があなたがたの上にありますように」の言表とはその瞬間に祝福は完了して遂行されて成就されていることではないか。有頂天の二人にこの上何が必要だと思わんばかりの幸せの笑顔、輝く瞳。そんな状景をよくわれわれは目にする。

あるいは日常よくあること。祝いの「おめでとう」という言表は「おめでとうございます良かったですね」という言葉によって互いの祝いの空間を肯定し共有しているわけで、さらに相手の「ありがとうございます」という応答でその言表に現実空間は成し遂げられていると言える。お世辞であっても一応なんとはなしに表面は互いを肯定しているのだろう。言語学や言語行為論ではこれを端的にPerformative speech actやExpressing performative speech actなどと言っている。遂行的言語行為1や明示的遂行言語行為といったらいいのだろう。

ところで・・・「不幸」という言葉が聖書には沢山出てくる。マタイ福音書では14箇所くらい出てくるのだが、聖書にある不幸という言葉は果たして「幸福ではないこと」をさしているのだろうと考えた。

「不幸」という言葉が発せられる。不意に発せられた叫びのように

マタイ福音書の26章24節に「裏切る者は不幸だ」という箇所がある。

人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。

これは「不幸者」という裁きではなく、裏切り者への憐れみという「悲しみ」イエスの苦悩の姿がまざまざと浮かんでくるのではないか。さらにイエスの言葉によってユダは罪を負う重荷さえイエスが背負っている。震えるイエスの静かな悲しみが既知して未知に渉ったかのようだ。遂行されている言葉と力。この「不幸」はイエスや天の国に対する無理解者と対したときによく使われている。悲しみや憐れは以前話したように、センチメンタルや同情などではなく、「スプランクニゾマイ・憤りをもつ憐れみ」を伴うものがベースだと言っておかねばならない。id:Emmaus:20070312:1175759623

因みにそれを裏付けるように・・・日本語としては「不幸」という言葉は、ギリシャ語では「ouai」英語は「woe・alas」とある。どうやらこの「不幸」という意味は、「幸福ではないこと・アンハピネス unhappiness」というよりも、神の言葉に背いた者たちの不幸に対するイエスの「悲哀、悲痛、悩み、苦悩・interjection of grief(悲しみの叫び)」とみた方がもっとも理解しやすい。

まったくこのように様々な事柄が少しづつだが了解されてくる。奇妙なことだが・・・。理解しようとするから「理解ができぬ」と分かり、理解が出来ぬから、解き明かそうという思いに駆られる。「あることが、その人がまだ全然何も分かっていない」とふと気づく。分かってないと判る時こそはじめて少し何かが分かりかけてくると思える瞬間ではないだろうか。何れもこの一つの同じ空の下にいるのだから。