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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

木綿以前の事 柳田國男

柳田國男、大正十三年の発表のもの。

木綿以前の事 (1955年) (角川文庫)角川書店
木綿以前の事 (岩波文庫)岩波文庫



木綿と瀬戸物への我々の内なる記憶。

季節はもうすぐ五月。
洗い晒しの白の綿のワイシャツ。・・・。薫風。

木綿のシャツの風合いが快い季節になった。ボクの首はデカイ。洗濯したでっかいワイシャツがゆらゆら揺れる。そのアルジのボクは洗濯を終えて水をゴクリと飲む。カチリと前歯に器を当ててみる。磁器の冷たさがキーンとした遥かな響きとして体を貫く。またゴクリだ。気持ちいい。ゴクリ。

かつて柳田國男は「日本人は木綿を用ゐぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせて居なかつた」と述べた。木綿の好ましさの第一は肌ざわり、柔らかさと摩擦の快さ。寧ろこれは絹よりもすぐれている。その第二に染色の佳さを柳田は挙げている。確かに染めの発色は絹には劣るだろうが木綿には染めの容易さ多様な縞柄の発達と奥が深い。伊勢・三河・河内各地に様々な木綿があった。信州に善光寺木綿というものもかつてあった。

果たして木綿以前の時代は「何を着ていたのか?」。だがこの疑問自体さえ浮かばぬくらい、木綿というものを日常において意識せずに我々は使っているのだ。また更に柳田は・・・芭蕉のいた江戸の元禄の頃には、江戸の人までもが木綿といえば、優雅な境涯を連想するようなものであったのだと木綿の価値を述べている。現代と昔では木綿というものへの認識の差が余りにも大きいことが分かる。木綿の出現によって二千年来の麻はわれわれの前から遠のいていった。角張った麻の外線は消えた。麻布の慣習は単衣に糊を強くすることで昔の麻の心持ちを残していくが、我々の保守主義はただ五七十年の模倣であり消え去る。かくして木綿の柔らかさと伸びと縮みはわれわれの立ち振る舞いや身のこなしをより自由に活動的にしたのだ。我が身と衣類というものを親しみを大きくした。木綿のワイシャツの白色が眩しい。

それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こつて居る。即ち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚を多感にした。胸毛や背の毛の発達を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。乃ち我々には裸形の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思つて居た紅や緑や紫が、天然から近よつて来て各人の身に属するものとなつた。心の動きはすぐに形にあらはれて、歌うても泣いても人はより一段と美しくなつた。つまり木綿の採用によつて、生活の味はひが知らず\/*1の間に濃かになつて来たことは、會て荒栲(あらたへ*2)を着てゐた我々にも、毛皮を被つて居た西洋人たちにも、一様であつたのである。

  • 木綿以前の事-

どうやら体を覆うものから我々は解放されると同時に内なるもの我々はさらに露わになり多感になっていく。
風が吹いて木々がそよぎ日光が漏れる。台所の奥にそっと白くして光る器がある。その横には白木のお椀がある。その温もりはそれ故、どこかに侘びしくだからいとおしい。

木綿の到来が日本に日本人に変化を与えたと同じく変化の助けを促したものに瀬戸物というものの力があったと柳田はいう。木綿にしろ瀬戸物にせよ、われわれの記憶や記録にも留めることのない新たなものへの喜びと同時に、我々の内側にも起こつて居る棄て去ることの変動も今また何気ない日常の仕草や立ち振る舞いのかたちへとして現れているに違いない。

白木の椀はひづみゆがみ、使ひ初めた日からもう汚れて居て、水で滌ぐのも気安めに過ぎなかった。小家の侘びしい物の香も、源を辿ればこの木の御器のなげきであつた。其中へ米ならば二合か三合ほどの価を以て、白くして静かなる光ある物が入つて来た。前には宗教の領分に属して居た真実の円相を、茶碗といふものによつて朝夕手の裡に取つて見ることが出来たのである。是が平民の文化に貢献せずして止む道理は無い。昔の貴人公子が佩玉の音を楽んだやうに、かちりと前歯に当たる陶器の幽かな響には、鶴や若松を書いた美しい塗盃の歓びも、忘れしむものがあつた。それが貧しい煤けた家の奥に於ては木綿のために麻布を見棄てるよりも、もつと無条件な利益を我々は得て居る。しかも是が何人の恩恵でも無かつたが故に、我々はもう其嬉しさを記憶して居ない。偶然とは言ひながらも是ほど確乎たる基礎のある今日の新文明を、或は提督ペルリが提げてでも来たものゝやうに、考へる人さえあつたのである。

ボクが物心就いてはじめに買った器は木の器でも白磁でもなく、李朝風の上野焼という陶器だった。さて皆さんは初めに何を買われたのだろうか。ボクがはじめて買った衣類は綿のYシャツだった。

*1:くり返し記号

*2:織り目のあらい粗末な布。上代、藤・麻・楮(こうぞ)などの繊維で織った布の総称。平安時代以後苧麻織物をいう