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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

2007夏の終わり・久しぶりだよ主日ミサ

言葉が意味的なものとなるのは・・・まさにボクの中心的経験的でそうなるんだね。

新しい仕事(病院介護勤務上)が勤務シフトになっているので、ほとんど日曜日に休日がとれなくなった。まいったなと思ったけど、しゃーないです。決めたのだからね。で一ヶ月半ぶりに日曜(9/2)に近くの教会で主日ミサに与った。
いいね。いいよ。めちゃくちゃいい且つじんわりいい。やっぱりみんなと一緒に与る主日ミサ。
光は闇だけを照らすものではないね。祈りに行く道すがら。もう陽が高くあるのに明るい道をみ言葉が内なる光として照らしている。「御言葉はわたしの足のともしび」(詩編109:105)。なんてさ。

洗礼を受けてからというもの4年間一度も主日ミサを欠かしたことなかったから、日照りの渇ききった体に沁みる一杯の水のありがたさだった。

キリスト教の信者ではない方には教会にいく気持ち、特に主日ミサの良さが分かりにくいだろうけどもね。もうそれはそれは・・・こちらの望んだ<思い>という矢が果たそうとする<かたち>の的の中心をずばっと射る感じ。ていうか、<思い>の矢を放った後から、的が矢に移動してすっぽり入るとも云える。よくキリスト教の神学では【現存】ということを云うけど、ぼくにとっての【Presence】はピンポイントを貫いた爽快さと透明さ。

ミサにみんなでいること-思いがかたちをなして-がイエスという大きな眼差しの風景に溶け込んで透明になっていく。透明になりながらボクらは隠されてまた自分というもの顕わにされ自分を知り元気になっていく。そんな訳で、ミサの司祭の説教が多少まずかろうが信徒の中にへんなの?がいようが(人のことは云えないものな)、全然気にならない。


聖霊によって洗礼を授けて(使徒言行1:5)
その命はキリストと共に神の内に隠されている(コロサイ3:3)
エスが肉体において来て下さったキリストであるを宣言する霊(1ヨハネ手4:2)を知ることになる。

その三つが「祈り」へと結ぶのだろう、きっちりとした確かさで。


ところで、ミサでパンをいただく前に「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて、誰のところに行きましょう。」とみんなで唱える時に、こともあろうに嬉しくて熱いものがぐっとこみ上げてきちまって目頭にウルっと来た。こんなこともある。2007夏の終わり。多分また主日ミサにはしばらく行けないだろうが潤いは持続出来ると思う。帰り道、軽快にバイクでぶっ飛ばした。そうれ、いけ〜だ!