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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

存在と描写と表現=脱複写

どうもこのところデジカメで写すものが対象の価値によりかかり過ぎではないだろうか。

かつて植田正治 http://www.japro.com/ueda/は写真についてこう言っている。

美しく、めずらしく、貴重な被写体であっても、対象の価値によりかかりすぎたものに心をうつ美しさや感銘を得ることはない。うちに秘めた対象との言葉を大切にしたいと思う。私は脱複写、脱複写と念じながら撮り続ける。

でもどうしてもボクには植田正治が好きになれないのだ。人間の生の場というものが感じられないからだろうか。

あるいは、もっと言うと・・・カルティエブレッソンの「決定的瞬間」と対照的なフランスの写真家ジャンルー・シーフ(Jeanloup Sieff http://www.jeanloupsieff.com/)の写真、特にモード雑誌の写真がボクは昔若い頃に好きだった。ボクの記憶の奥にはいつも写真を見る時のこの「物差し」があった。対象(相手)に向かいあっても一体とならない眼差しが、植田の「うちに秘めた対象との言葉」と異質だがジャンルー・シーフに惹かれていた。対象に対して冷ややかさと透明感のある厳しさを伴う<乾き>を一層好んでいたのだろう。

当時ジャンルー・シーフはこんなことを言っている。

写真は一杯に詰めこまれたバックににている。皆それぞれ自分のバックをもっている。幸せであった時、その人に愛を感じていた時。死んでいく時間を無理して止め、生き残らせる写真とは、何と滑稽なことだろうか。不死身であるはずの感動は、匂いを失い褪せていくのに、その瞬間を撮らずにいられない。写真は死だ。虫ピンで止められた蝶々です。ではあの夏はどこに行ったのです。あの羽はどこにあるのです。失われた激情を記憶しようとするそれは、嘲笑的な挑戦であるにすぎない、のかも知れない。

植田とシーフ。2000年に共に亡くなっている。