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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

待ち望む日々

待降節第3主日が過ぎた。

エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主(spirit)がとどまる。〜イザヤ11〜

この季節、わたしたち(教会)には四つのろうそくがあり、週毎に一つの灯りがわたしたちの<間>に点る。間とは、こっちやあっちではなく何かの隙間でもなくわたしたちの間(ま)つまりわたしたちのスペースである。このスペースに灯火がひとつ点りまた一つと点る毎に既に何かが確かに<生じている>。

これは何だろう。「愛」という言葉を使うのは出来るだけ控えたいが・・・、感情が人の所有に纏わるもので愛が人の間に<生じる>ものであるならば、この時(降誕の前)にわたしたちの<間>にあるものは単なる救い主を待ち望む喜びの感情ではなく、それは人が所有出来ない<生じる>「愛」にちがいない。わたしやあなたからのものではなく、この待ち望む内に<生じる>ものを言葉にすれば、それは神の愛だということになるのではないか。「感情は人間の中にあるが、人間は愛の中に住まう」と述べたのは誰だっただろう。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。〜ヨハネ書1〜

受肉(降誕)から受難と復活のキリスト・イエスの二度と起きない一度切りのランドスケープ。言を待ち望むという始めの地点に今わたしたちは居る。去年のわたしとはまるで違う今の自分が居る。それだけにわたしたちが毎年同じように記念することの大切さが身に浸みる。主日ミサにはいけないがこの待降節にあらためて様々に思い巡らしてみた。