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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

2008春2

グランドを走る爽快さ。走り終えて雲を見上げているのがいい。まるでこのまま阿呆になりそう。いっそそうなりたいがそういう訳にはいかない。グレン・グールドがただアドレナリンを放出すればいいというわけではないと云ったのがよく分かる。ボクは熱心な村上春樹の読者ではないが、彼の「走ることについて語るときに僕の語ること」のいくつかのフレーズが走り始めるとボクの体のどこかで囁く。わが身を整えることの心地よさ。それを語ること。あのエッセのタイトルはレイモンド・カーヴァーの短編集のタイトルから譲り受けたもの。そのタイトル「What We Talk About When We Talk About Love」。つまり・・<愛について(生きることについて)話す時、一体われわれは何を語るのか>という事のアレンジ。で中山さん(id:taknakayama)と目白の駅のプラットホームで村上の話を少ししたが、時間があればもっと話したかった。でも語り尽くす以上に共に<生きること>を感じとれればいいのだろう。

河川敷の土手にボケが咲いている。それに菜の花や諸喝采、イタドリなど。創作において作品がそうであるように全体が完結してこそ表現の意味となるのだが、しかし季節の花だけを見るだけで季節の全体を強く鮮やかな振幅(ありのままの有り様)として感じてしまうことが偶にある。まるでその一行にすべてが凝縮されている詩のように・・・。音楽がそうであるように。ボクはまったく後期ロマン派のいい聴き手ではないが、たとえばフーゴー・ヴォルフの歌曲のあるフリーズ。曲の間に突然訪れるある種の寂寥感みたいな、あるいは空白。その部分がその音楽の本質でもある全体を表しているかのように。


河川敷の草原にいつも野良猫がいる。まるで自分の在処のように堂々として何もせずただ何かを見下すように。ボクは走り抜ける。ボクの場合は?走り続ける。整えるため。走ることが愉しいから。