Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

ツールはわれわれの意図を超えるのか?

Webネットワークのこと。

ビル・アトキンソンは自らが生み出したハイパーカードを顧みて、自分のアイデア(開発)に盲点(欠落したもの・過ち)があったことを述懐している。

アトキンソン氏は、アップル社のエンジニアが、多くのコンピューターを互いにつなげるという形でネットワークの構成図を描いていたことを思い出す。しかしサン社のエンジニアは、まずネットワークのバックボーンを描き、そこにコンピューターをぶらさげた。これは決定的な違いであり、自分にとっての障害になったとアトキンソン氏は考えている。

「もっとグローバルに考えていれば、(ハイパーカードを)そういう風に構想できただろう。他人のウェブサイトを、丸ごと自分のハードディスクに移してから見るのではなく、少しずつ閲覧する……自分のハードディスク上にあるカードのスタックだけよりも、はるかに強力だ」

「100年単位で考えると、パソコンの真価は表計算ソフトでもワープロでも、ましてやデスクトップ・パブリッシング(DTP)でもない。それはウェブだ」

http://wiredvision.jp/archives/200208/2002082304.html

確かに、三上さんが云われたように(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20080104/1199466650)システム(体系)にはコミュニケーションの「裏道」があればいいと思う。もっと云うと・・・その<道>ネットワークはわたしたち自身の可能性であり、わたしたちが表象するページのある種の余白?ではないだろうか。ギュウギュウに文字の情報が詰め込まれたページには辟易するし考えも鈍りがちだ。ページの余白は開発者の意図するハード(装置)であると同時に<わたしたち>と云えるような、<共>にあることの力に促される、<わたしたち自身>のある志向の高さをもった余白の間ではないだろうか。その<余白>の場に居ること-ブログというネットワークを-(確保すること)でささやかにある方向(未来)に確かに向かうことが出来るからだ。その余白の場(広さ)はこれぞブログ力。
どこかに同じ風が吹いている。それは兎も角、同時代性のある種のわれわれ全体の傷を持っていても、互いに傷を舐め合う予定調和の思い(センチメンタル)の風ではない。その感傷から遠くにいてその場に繋がるもの、共にするもの。それがブログ力だとしか今は云えない。つまりネットワークを描写してそこにブログを宛うのだ。その力は個人の力量などではない、みんなのブログ力。あるいはその道という希望にブログをぶら下げる力というべきか。(←なんという表現。だがそうとしか云いようがない)

つまり中山さんのエントリーにあるように、(http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20080403/p1)「思いがけなかった響きを獲得できるということにこそある」ということになる。思いがけないという、うつろであいまいで不完全な私たちが、ある響きを獲得するようになる。デジタルとアナログの交差。ボクらは何処に行こうとしているのだろうか。確かなのはボクは他者から<風>の響きを聴いていること。風の響きは共感であり、共鳴という言葉で表される。そういえば希望を道に喩えたのは魯迅だった。あれはどんなパラグラフで云ったのだろう。