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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

二つのエピグラフ

軽やかな鈴の音が聞こえる。あの向こうの電話機からなのだろう。夜も更けているがパチパチと焚き火が燃えさかり語り合う声が小さく響いている。しばしの静寂をぬってこちらに人影が現れた。受話器をとって「はい、はい」とだけ受け答えて机に何かをぴたりと置いた。炬火を背にした逆光の為に誰だかわからない。角度が変わる毎にまわりの光りがその容姿をキリキリと削ぎ落としていく。次々と別の場面を見ているようだ。面に光が射した。あっ妹だ。どうして。ずっとみんなで手分けして探したのに。微かに左頬にえくぼがある。なんだ、こんなところにいただなんて。笑っている。ほっとしてわたしたちがかけ寄ると妹は、鹿のように急流を一気にジャンプして森の中に走り去った。なぜ、ここに森が沢があったのだろう。電話がまた鳴った。近づくと呼鈴は途絶えて卓上のベークライト製の電話機の傍に十円硬貨が三枚置いてある。見渡すと沢も森もこの視界からはもう何も見えない。

夢だった。夢は一切の判断を許さぬ目覚めであるならばどんな解釈も出来るのだろう。一つのエピグラフ、大きな森の夜の背後に一つの「死」の一点が夜警の焚き火の灯りの揺らぎの中でこちらのわたしたちの「生」の全体を照らしている。

義理の妹が逝ってから一年が立つ。今、台所で朝餉の用意の音か胡麻を摺る音がする。その音をずっと聞きながらすりこぎは朴の木だろうが焚き火の薪はブナだったのかとぼんやり考えていた。扉の外から妻が「食事できました」と声がする。「ん」と応えてわたしは床をから這い出る。おう姉妹の声ってそっくりだ。後ろから気分を断ちきるように壊れた目覚まし時計が遅れて鳴った。

やっと何か言葉(私達自身)に慎み(思慮/自由)を見い出したと謂うべきか。あまりものごとに深入りして悲嘆を注ぎ込んではいけない。きわめて明らかなことは、人に示しえると同じく私にも示しえることは、オノレが持っている以外のものは人に示しえないということだ。もっと言うならその持つべきものは、生きるよろこびの希望以外にはないということ。希望というもう一つのエピグラフは私たち全体を照らす光りなのだ。

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