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“だれ一人自分のためにだけ生きる人はいない”

写真はほんとうのところはよく分からないがたのしみたい

三上さん(id:elmikamino)への手紙(コメント)

三上さんお元気でしょうか。朝ジョグしていたら犬と散歩人のいい風景がありました。会ったことのない風太郎くんをすぐ思いました。それが左の写真。それに今朝ジョグにipodでシャッフルしていたら、倉さん(id:atkura)のシュンポシオン横浜の時の録音が出てきたのです。走ること、書くこと、つながること。村上春樹のことを。とつとつと語ってくれています。そして「風太郎くんがんばれ」という声には思わず足を止めて空を見上げてしました。音の記録ってすごいなと思いながらのジョグ。

私の持論の独断と偏見

さて先ず、ボクがズレたとコメントしてそれを消した(笑)のは、「写真という滓」の記事だけでボクが三上さんにコメントをしたのは迂闊だったと思ったからです。何故なら「写真という滓」は三上さんの「無謀な知覚を企て」がいいとボクは思ったから。でもまさか時間差であれアン・ビクトルの写真を三上さんが記事にされるとはボクのなかで想像出来なかった。というのもボクは最近写真や写真を撮ることに対してどの写真家でもいいのですが特定の作品や写真家を論じるような一定のフレームで括るのがどうも好ましいとは思えず、また楽しめないという気持ちが強くなっているからです。もちろん好みの写真家はいます。写真家を例に引用するのも理由があるでしょうが、ある特定の写真家を選択したこと・上げるということは実は特定でない他の写真家を上げなかったことを物語っている。その一定のフレームである標準が自分に作られて本来見えるものが見えなくなると感じてきたからです。それよりもっとストレートにいえば、わたしは少しはいても特殊で偏っていて実に写真家をあまりよく知らないのです。だからいっそ情報を削るだけ削って自分が写真自体と感応していたい。一汁一菜のようでもいいから切り詰めて日常で自分の言葉で写真を語りたいと願っているからです。まあこれは私の持論の独断と偏見です。

複雑な関係の深まりとは

ところで、コメント欄で三上さんは、写真に対する「倫理」と言われるのですが、敷衍をゆるされるならば、それは写真についての立ち位置の誠実さだと思うのですがいかがでしょうか。命の全体像のようなものの一瞬を通して、写す対象との関係の深まりを例にアン・ビクトルの写真を引用されるのはそういう意味で真摯さにおいてもわたくは賛成です。しかし、だとしたら、写真以前と以降の時間というか相手との複雑な関係の深まり=立ち位置の誠実さは、どうのようにして分かるのでしょうか。光画(作品)に反映されるのでしょうか。ここが三上さんに訊きたいところです。あと宮本常一の例や森山大道の宮本への見方は賛成です。ちなみにわたくしは森山は好きな写真家の一人です。むしろマリオ・ジャコメッリの方が作為的に感じてしまいます。見解の相違でしょう。

結論は写真は論を立てずたのしみたいがいまの心境

纏めてしまえば、妙な喩えは禁物で写真と料理は違いますが、日常の食事は論を立てず調えて(調理して)たのしみたいというレベルでしばらく行こうと思っています。でも多分そうは言っても今日も走りの途上に写真をとった訳です。なんでそうなのかほんとうのところは自分でもよく分かりません。調理にも「理」があるならば論じずともどこかに論があるのでしょう。悪いことはすぐに対象化出来ても好ましいものはなかなか対象化できないということのなでしょうか。この時でもどれだけの人がカメラを手にしてシャッターを切っているのでしょうか。写真って何なんだろうと思います。いつかはまた論を立てることもあると思います。長々と書きました。ズレがあったらコメントいただければと思います。普段のTwitterと違って思いの丈が書けたと思っています。やはりブログの良さでしょう。ではまた。

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