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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

ドングリと入道雲とハイドン



高二の夏休みの終わりだっただろう。当時クラシック音楽のレコード鑑賞会というものがさかんな時代だった。その会の発起人のKさん宅に招かれた。日頃からわたしによく声をかけてくださっていたが、二回りも年上ではいざ一人で自宅に誘われるとなるとはじめの楽しい気持ちは消え失せ日が近づくと億劫になった。わたしは直接電車で行かず歩いてそれも小高い山をわざわざ迂回することに計画を変更した。-あの頃から好きだったんだな、ぶらりとするのが。-まだジョギング・シューズはなく月星の運動靴だろうか。ナップザックというものはあったがデイパックはまだなかった。兎も角、歩いていったのを今でも覚えているのは、日焼けの後の鮮明な痛みを憶えているせいだ。蝉時雨が全山を覆って山の中腹には最澄が彫ったとされる千手観音があった。あたりには季節にしては早いドングリの実がたくさん落ちていた。登りつめれば三百メール程の山頂からは有明の海が見えた。


伺った音楽の大先輩であるKさんは「音楽をかけるには一家に一人で十分だ」というようなことを言われて一枚のレコードに針を落とされた。その言葉に嫌だなとおもいながら、実に退屈な音楽だとおもった。LPの片面が終わる頃にはそこの家人が来られ恭しく挨拶された。奥さんだった。暫くしてわたしと同じくらいの歳の男の子と女の子が入ってきてペコリとお辞儀して笑ってサイダーをテーブルに差し出した。わたしもあいさつした。へえ君か、噂の男の子は。顔立ちが父親のKさんそっくりだった。可笑しかった。一気にサイダーを飲み干した。やっと気が和んで、レコードのジャケットにわたしは手をのばした。縁側からは大きな樫の林とその向こうに立ち上る入道雲が見えた。これがハイドン弦楽四重奏曲との出会いの始まりのシーンだった。


月に一度のクラシック音楽のレコード鑑賞会はわたしが一番年少で、ほとんどが大学生か社会人だった。いろいろなことを知ったり学んだりした。イェルク・デムスやコルトーを知ったのもこの会のおかげだった。マタイ受難曲も教えてもらった。この会のKさんはイェルク・デムスととても懇意にしていた。余談だがのちのちイェルク・デムスをわたしの車にコンサート会場まで乗せるということにもなったのだ。しかし当時高校の頃わたしはラベルが好きだった。ドビュッシーとかも好んでよく聴いていた。ジャズにも傾倒していった。


実はあの夏にKさんの言葉にちょっとした抵抗を感じハイドンにも関心がうすれていった。Kさんには何の問題もないはずなのに反抗期の若さというにはあまりにも身勝手で幼く、今からすれば恥じいるばかりだ。そのハイドンの封印が解かれたのは三十の中ごろだった。変われば変わるもので、年を経る毎ハイドンを聴くことが多くなっていった。それも夏の終わりのころ、ドングリの落ちる頃入道雲が沸き立つころが聴くのが一番多いは何とも感慨深い。


わたしたちは、欠けたものを満たし、損じたものを補い、失ったものを他によって充てがい、いつも奔走している。求めることと与えることの狭間であくせくしている。それが日常だ。だが、ちがうものがある。ハイドンの音楽はそのようなちがうかたちでちがうあり方でわれわれを整える。そんな気がしてならない。


「編み物をするのは一家に一人で十分」という科白を近頃ある小説の中でみつけた。あの夏のことを直ぐおもい出した。そのKさんの年賀状がある時から途絶えた。人づてにKさんがなくなったのを知ったのはついこの一ヶ月まえのことだ。ハイドンを語ることはわたしには出来るわけがなく、ハイドンにまつわるおもい出話しならば普段のように素直に語れる。四十七年前のあの時聴いたのは、弦楽四重奏曲第48番 ハ長調 Op. 64 No. 1, Hob.III:65だった。