Emmausブログ

人は見ね/人こそ知らね/ありなしの/われは匂ひぞ/風のもて来し

エザイアス・ロイスナーを聴きながら

冬のあいだは見えていた多摩や丹沢の山並みが春霞で見えなくなってきた。しかし、見え始めたものもある。近くにある林床に咲く菫だ。その蕾が開き始めた。 朝の空気ははつらつとして、まだ寒さの残るこの頃である。

探しものをしていて家の奥の部屋の引き戸を開けると、くっきりと四角にうきでた窓のカーテンから日の光りが漏れている。力に任せてカーテンを放つや否や、一斉に光の束が床に飛び散って目が昏み思わず足が竦んでしまった。(何事も一気呵成になさない方がいい :-) )

で、目がなれてくると、辺りは一変して天井にバウンドした光が柔らかく部屋全体に回り込み、部屋の品々は陰影を淡く落とした淑やかな光景となっていた。僕には不可侵の領域だと感じ乍も、心地よい思いが徐々に膨らむのが確かな胸の鼓動とともに分かった。(待てば回路のなんとやら :-) )探しもののことなどすっかり忘れてしまった。いやはや。痛みの原因のピンはとんでもない意外なところにあると同じく、喜びの元も意外なところにあることもまた真理であるのだ。

新たな季節の変化(光景)に心弾むことなどすっかり忘れていて去年の春は一体どうだったのか、覚えてない。それだけに、ときめく(exciting)ということが新鮮で、このつややかな新鮮さにしばらく密やかに浸っていたいというジジイ心?に我ながら苦笑した。 何れは消え去るものでも、自分の中にときめきへの願望があったのだ。やはり自分しだいだと小さく頷いた。

エザイアス・ロイスナー(Esaias Reusner)
バッハともヴァイス とも違う、音もメロディーも構成も簡素で技巧を感じさせない楽想だけに何度でも聴きたくなる短詩形の余韻を持ったリュート音楽だ。 演奏はコンラート・ユングヘーネル(Konrad Junghänel )がいい。他のリュート奏者のものではしっくり来ない。フレージングの違いだけではない音の作り方、つまり音楽感性の中心が僕の好みの波長と同調するからだろう。

Esaias Reusner LUTE Suite in C Minor