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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

えんどう豆のさやを剥きながら

梅雨にしては晴れ間が続いている。友人らと音楽の話しをしていた。どういう話の流れだっただろうか、「人生の最後に聴きたい曲は何か」という話題に行き着いた。人生の最後という言葉が日常を超えたフレームとして際立っていたが、居合わせたものはそれぞれの思いで自由に話をしていた。それはそれでなるほどだと感心しながらそれらの話をぼくも聞いていた。

さて、ぼくにおはちが回ってきた。ものごとには確かに始めがあれば終わりはあるのだが、ちかごろのぼくはとりたてて末期を意識することもなく、ごくふつうに楽観も悲観もなく<今のこの時が最後>と思うようになってきている。これはやはり、患いついた為だろう。だから、今の時をあえて度返しにして「人生の最後に聴きたい曲」といっても、今聴きたい曲が謂わば最後に聴きたい曲だということになる。
たとえていうと、死ぬ前に最後に食べたいものはと聞かれても、今食べたいものがそれに他ならないと、同じことだ。それがえんどう豆の一粒だとしても、それが最後に食べたいものだともいって言いのだ。春の旬を極める筍の味は言葉にならないほどうまくぼくの好物の一つだが、特別にあえて人生最後のものではなくても後悔することはないだろう。むしろその時々の成り行きで構わない。今日の夕飯のえんどう豆ご飯の下準備の一つひとつ豆の鞘剥きに余念がないが、ともかく、えんどう豆はぼくにとって何かの縁だったのだろう。

まださいわい、仕事も現役で終活など程遠い。また普段、欲がまったくないわけではない。欲しいもの、行きたいところもある。

で、因みにこの以前に聴いていたものは、リヒテルハイドン16番。ペルゴレージスターバト・マーテル。パオロ・パンドルフオのチェロ。ウィリアム・バードのファンタジアだった。印象的だったのがバードのファンタジアだったので、若干のことわりを入れて、みんなにレオンハルトのバードのファンタジアにまつわる話をすることになった。

ある友人は旅先のケルンでのモーツァルトドン・ジョバンニの思い出話を語ってくれた。また他の友人は宮沢賢治のなめとこ山の熊と薩摩琵琶の弾き語りを話してくれた。

ぼくには、最後に聴きたいという思い入れはほとんどないが、しかし、友人らの話しはそれなりに意義深いものがあった。人生は味わうに足ると確信した。

梅雨の晴れ間、明日は近くの山にアジサイを見に行こうかと考えている。