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“だれ一人自分のためにだけ生きている人はいない”

虚室に白を生ず -想像をこえて-

先ごろの台風の爪痕は凄まじいもので、通常の想像をはるかにこえていた。昨日近くの多摩川の河川敷を歩いたが河川敷の土が50メートルにも流水で深く抉られていたを目のあたりにした。だが、もう流木もすっかり片付けられ川岸には子供たちののどかで明るい声が響き渡っていた。なんとも言いようがない。これでいいのだとも言えるし、これからは自然災害の準備を怠るべからずだし、忘れてはいけないとも思う。

さて、何もない空き部屋には太陽の光が燦々と注いで、明るさは想像をはるかにこえていた。床にはね返った光で天井には緩やかに動く波紋が描き出されているのをみつけた。これは、外の風の木々の揺らぎのせいだ。思いの外のあり様に惹かれつつぼくは部屋に足を踏み入れた。

コトリとも音がしない静まりかえった部屋。遮るものはなく何にも想像するものはない。太陽光線が全反射の時の色を白という。色がないのに白とは何だろう。その白の光の中でありのままの素直な思いでモノを受け容れることができることに我ながら恐れ入った。自分の見方を放擲すれば、自分とは真反対の考えや生き方の人も素直に受け容れることができる。70歳にしてこれだ。思わずにんまり。

見ることは聞くことでもある。確か、ファン・エイクのサン・バヴォンの聖堂のゲントの祭壇画では礼拝者は光に耳を傾けて、「光を聴いている」。それは聖なる光であるのだろうが、聖霊というもののへの先入観はなかったに違いない。

記憶や経験に基づかずに、見たいものだけを見るのではなく、見えるのではなく見ることをそのまま受け容れる。聞きたいことを聞こうとするよりも、聞こえるのではなく聞くことをそのまま受け容れること。

今年の春にモーツァルトから遠のいたのだが、聴かずとも返っていつも常に聴いているような感覚の日々なのだ。これはNさんが言っていたことだ。僕には、遮るものがなくなって素直な思いで接する(見る)ことが可能になっている。思わぬ発見だ。

後半年して来年の春ごろにはどんなことになっているだろうか。河岸はどうなっているのだろうか。空き部屋はどうなっているのだろうか。想像をはるかにこえているのだろうか。

Nさんが言ったことは次のようなことだった。

若い頃は、モーツァルト交響曲ピアノ曲を好んで聴きましたが、今はほとんど聴きません。でも、なんというか、常に聴いているような感じがあります。